ひきこもりの感覚、ふつうのひとの感覚。

今朝の朝日新聞の朝刊の一面に、「ひきこもりのリアル」と題して、「親の死後 僕、どうなるんや」って、どデカく、かかれていた。すこしまえの過去の自分だし、すこし未来の自分だとおもうので、ひとごととは、おもえなくて、「父親不在」とか、「父性のない社会」とか、そういうのをカギにして、かんがえをまとめてみようとした。あれこれと、ノートにかいてみたが、結局、まとまらなくて、やめた。

まとめようとしてみたが、こまぎれの想念がポツポツとでてくるだけで、まとまらなかった(まとめられなかった)という事実のことをかんがえてみたい。

たぶん、こういうたぐいのことは、社会的な視点にたつと、問題提議をして、課題解決のために、かんがえるべきことなのだろうとおもう。が、個人にとっての、主観的なところについての問題として、それらをとらえるならば、とやかくかんがえることは、むしろ無用のことなのではないだろうか。かえって、かんがえることによって、不利益をこうむるのではないかとさえ、おもう。

いま、ちょうど風邪をひいていて、体が気だるい。その気だるさが、根気のない性格的な特徴をさらに強化しているようで、「しんどい。かんがえるの、やめた。」と意思決定を容易にする。ためらうことなく、というよりも、ほんまに気だるいので、ためらう余裕もなく、かんがえるのをやめた。

「なんのために、いきるのか」と人生に目的をもとめることや、「どのように、いきるのか」と人生に意義をみいだそうとすることは、「生存することに不自由することのない」ような裕福な社会にいきているから、うまれてくることなのだというのは、ただしいことのようにおもう。

風邪をひいているときの方が、ひとや社会との距離のとりかたが、すこし上手な気がした。気だるくて、余計なことをかんがえる余裕がなくて、かんがえるのをやめることで、その「かんがえるのをやめた」分だけ、こころに余裕をうむような感じがした。

ひとついえることは、"ひきこもる"人間は、ひとや社会との接点を四六時中、さがしている。「どうすれば、なんとなく、ボーッとしていても、社会に所属できていたあのころのように、もとにもどれるのか」などと、ずっとかんがえている。これは、意識しているときもあれば、無意識におこなわれているときもある。反対に、社会に"ふつう"に所属しているひとたちは、そういうことをほとんどかんがえていない。それが、たぶん"社会人"としての健全さなのだろうとおもう。

"ひきこもる"人間と"ふつう"の社会人とのあいだには、おおきな溝がある。どちらが、わるいとか、そういうことは問題ではないとことわっておくが、この溝の存在に気づいているのは、"ひきこもる"人間の方なのは、たしかだとおもう。"ふつう"の社会人は、皮膚感覚的にも、なんにも気づいていないはずだとおもう。

そういう不感症的な社会から、「意をくんでもらえない」ということのくりかえしに、傷つき、つかれきったさきに、「ネガティブなあきらめ」があって、かなしい結末がおきるのだろうとおもうのだ。

自分がなにものであるかを横において、俯瞰的にものをいってみると、たぶん、「"ひきこもる"人間と"ふつう"の社会人」は、どちらもすごく幼稚で、子どもなのだ。「父親不在」だから、おとなになりきれていない人間たちの悲劇なのだとおもう。

ぼくは、ここで、梅棹忠夫の「あかるいペシミスト」ということばや、司馬遼太郎の「美しき停滞」ということばをおもいだす。

ぼくは、これらのことばが意味するのは、上のような現象への批判的態度だとおもうのだ。これらは、「ネガティブなあきらめ」とは、まったく別次元の「ポジティブなあきらめ」だといえるとおもう。前者はなんか「-1+-1=-2」で負がふかまるながれだが、後者は「+1+(-1)=0」で、無とか、空とか、なかなか自由な感じがする。

以上。まとまりなく、おわる。まとめるつもりは、はじめからない。