リアリティーのないリアリティー

「結婚とか、家庭をもつ気がないから、一生懸命はたらこうって、ならなくて、いまいちパッとしないんでしょうね。」と、半分は真理で、もう半分はまったくの誤謬だとおもいながら、ふいに声にだした。そして、「月に15万円くらいあれば、その日ぐらしなら、それなりに生活できますし。」とつづけた。

すると、「家庭をもつつもりがないってのは、よくわかる。ひとりで生活する分には、そんなにお金がいらんのも、わかる。けど、将来のこととかについてのかんがえは、全然ないんか。あんまりリアリティーがないな。」ということばがかえってきた。

そのことばには、「リアリティーか。たしかに、リアリティーはないですかね。だけど、いまのひと、というか、むかしから、そういう感じのひとは一定数いますが、就職氷河期くらいからですか、ふえてませんか。つい最近も、新聞の一面をかざっていましたし。」とかえした。

なんてことのない会話だが、「リアリティー」というひとつのことばについて、この会話をしているふたりは、とらえかたが全然ちがうと感じた。

「議論をする気も、論争する気も、わからせる気もない」という共通の認識にたっていたとおもうので、そのちがいの溝のおおきさを明確にするようには話は発展せず、この話題についての会話は、ここでおわった。

ぼくはこのちがいについて、相手は「リアリティーがないというリアリティー」のことがわからないんだとおもった。反対に、ぼくは、「リアリティーそのもの」のことが全然わかっていないんだとおもった。

昨日もまた、「お前は、観念論者みたいやな」といわれた。ピーターパンとか、ファンタジーとか、そういうことをべつのひとにもいわれているが、おなじことをさしているのだろう。自分でも、自分自身のことをピンクスパイダーだとみとめているので、そういわれたことには、「よくいわれます。」とこたえた。

ぼくには、「リアリティーがない」というのは、たしかだとおもう。

2019/6/19 上司とふたりで焼肉屋で食事したかえりの車内にて

 

<参考:上司とふたり、焼肉屋での会話①>

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