箱庭療法の現場②(臨床心理の奥深さ)

箱庭療法の現場をみて、そして、臨床心理士と話をしてみて、「これはたしかによい」と、直観というほどたいそれたものではないくらい、素朴な感覚で、そのようにおもえた。

しかしながら、いま、ぼくが対応している学生ような人間は、そのように、感じることも、理解することもできない。ものごとを素直に感じたり、かんがえたりすることができなくなっているのだろうか。一度、その場に、教員につれられて、はいっているのに、その後は足をはこんだことはないのだ。

今日、臨床心理士の先生に、学生の対応について、相談してみて、おおきな気づきがあった。いわゆる、「しかる」ということの意味について、おもいもよらない気づきがあった。

「しかる」ということは、「おこる」ということよりも、ものごとの道理をわきまえたうえで、おこなわれているような感じがあって、よいものだとおもっていた。しかし、これは、一般化できるものではなく、「こころがパンクしそうなひと」には、まったくあてはまらないことなのだと、おそわった。

たとえば、約束の時間に相手がおくれてきたとき、「約束したにもかかわらず、遅刻するのは、相手の信用、信頼をうしなうきっかけになる。やむにやまれない理由があったのだろう。だから、遅刻してしまうことは、しかたがないとしても、いつ頃到着するのか、いまどういう状況なのか、など、丁寧に連絡をするのは、自分のために、たいせつだ。」などというように、道理をとくことに、意義や効果があるのは、「健康なこころ」をもつ人間に対してだけなのだという。

ぼくなどは、ミスをしたときに、「なぜミスがおきたのか」ということについて、相手には、しっかりきいてほしいとおもうし、しっかり説明したいとおもうし、決して腫れ物にさわるようには、してほしくないとおもう。しかし、こういうものは、どちらかというと、「健康なこころ」をもつ人間の発想みたいなのだ。

「こころがパンクしそうなひと」にとっては、そのミスについて、放っておいてくれる方が、気が楽なのだという。

ただ、額面どおりに、うけとるのは、これもまた、ちがう気がしている。

臨床心理士の先生は、その学生との対応について、「あなたとのあいだに、信頼関係があることを相手に納得させることがたいせつだ」といっていた。また、「あなたという28歳の人間にある"わかさ"には、ちからがある。その学生と年齢がちかいということには、歳がはなれた人間にはない、影響力がある。」というようなことをいっていた。ぼくの力量では、にわかには、理解できないことだったので、うまくことばにできない。

このことをふまえると、すこし解釈がかわってくる。

ぼくは、上のように、「きびしく、道理をといた」ということについて、臨床心理士の先生に説明するとき、「このやりかたは、正解だったでしょうか?」と、きりだした。このためらいを、あるいは、先生は察知して、上のように、否定的なことをいったのかもしれない。なんというか、いまのぼくに、ああいう父性的なことは、まだあっていないということをさとしていたのではないだろうか。

相談した時間は、わずか30分くらいだったが、めちゃくちゃ勉強になった、意義深い時間だった。