病気と人生と社会とのかかわりあい(副鼻腔炎が再発した)

副鼻腔炎が再発した。ひどくなりかかっているので、2ヶ月、薬を服用することになった。

「これをやれば、一発で解決する」などという魔法は、この世のなかには、ないのだ。そのようなあたりまえのことが、なかなかわからなかったが、なんとなく、今日、わかった気がする。

先週、風邪をひいたが、なおりがわるかった。ずっと鼻声で、鼻水がおさまらず、喉の方にもながれていた。そのせいで、むせこむような咳がとまらなかった。こういう症状を後鼻漏という。

咳こむことのつらさがあったことや小児喘息があったことなど、先入主があったために、うっかり喘息をわずらったとおもっていた。しかし、医者に、上のように、後鼻漏の症状を説明すると、「それは、喘息じゃなくて、副鼻腔炎ですよ」といわれて、自分に先入主があることを気づかされた気がしたので、すこし蒙をひらかれたような気がした。

後鼻漏の症状をしっかりとらえているのに、それだと気がつくことができないのは、ちょっと後手にまわりすぎなので、まだまだダメだ。先手で、病気に気づくことはできないが、もうすこし、後の先的に、気づくことができるようになりたい。

脱線しているので、冒頭の気づきに話をもどす。

3年前に、副鼻腔炎の手術をした。この手術をしたことで、もう2度と副鼻腔炎になることはないと、すこし信じていたが、それはまちがいだったのだ。

その手術は、鼻腔にある袋の除去と空気が循環するための空洞の確保を目的としておこなわれたものだったのだ。その結果として、副鼻腔炎に2度とならない可能性はあるが、完治することを目的とした手術ではなかったのだ。

あいにく、ぼくの副鼻腔は炎症にめっぽうよわいみたいで、ふたたび発症してしまった。手術のおかげで、回復しやすくなっていることを信じて、服薬治療にとりくむしかない。

「手術したのだから、2度と発症するはずがない」と盲目的に、迷信を信じるかのような気もちがあったので、一瞬、とりみだしそうな自分を感じた。というか、単純に、あの副鼻腔炎の手術は、めちゃくちゃしんどかったので、2度と経験したくないだけだったりする。

「かならず」とか、「絶対」というのは、たぶん文明社会のなかには、存在しない。そういうものは、それぞれの内的世界か、人知をこえた自然のなかにだけ、存在する。しかし、だからこそ、文明社会には、「信じてみよう」という自由があるのだとおもう。だいたい、自由とは、そもそも、「いま目のまえにある現実ではない世界がある」と信じるところに、あるのではないだろうか。

この程度の病気(※副鼻腔炎は、放っておくと、失明したりするので、たいへんきびしい病気だ。この程度という表現は、治療方法が確立されているという意味くらいで、つかっている)で、このようなことを感じたり、かんがえたりしているが、たとえば、癌とか、hivとか、そういう治療方法がまたまだ確立されていない病気にかかっていることをしったとき、ぼくはたえられるだろうか。