ある女性をおもう気もち
18時、喫茶店にて、ひとをまつ。
他人の話をきくことができるのって、つまり、他人の価値観によって、自分がゆらがなくなったってこと?
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
ひとに対する情はあるけれど、恋とか愛とか、そういうのは、よくわからない。性欲は、それらとはきりはなされて、あそびの方のちかくにあるとおもうし。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
たぶん、家畜化されてしまっているから、人間としてのまともさをうしなっているんだろう。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
テレずに、堂々と、話をするということが、どうにも苦手だ。淡々とはなすことは、感情をとりのぞいてはなすことだとおもう。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
19時半、あうのは、今日で最後だとおもっていたが、ふとたいせつなことに、気づく。
なんか、キミは、わすれようとか、あきらめようとか、そういう感じをなくしてくれる。なんか、すごく泥臭くても、しがみつくように、ぼくをかりたててくれる。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
20時、ふたりはであう。
21時、ふたりはわかれる。
エッチしたいっていう感覚を相手におぼえることが、実はそれが愛の芽吹きだったりするような気がした。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
男女の愛は、やっぱり「エッチしたい」っていうのがあって、成立しているんじゃないかしら。エッチしたいってならないのは、それはつまり情だとおもう。たとえば、自分の家族にいだくのは情であって、愛ではない。愛する家族なんてのはなくて、ふかい情はをそそぐ家族だ。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
愛というのは、友情とか、性欲とか、嫉妬とか、すべての感情と欲求がひとつに統合したところに、あるような気がする。だから、エッチ(セックス)をしたくないというところには、愛は成立しないとおもう。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
エッチ(セックス)は本来、子孫をのこす行為につながっている。エッチは、愛の要素なので、その行為によってうまれた子も、もちろん愛の延長に存在する。しかし、エッチは、この現代社会では、「あそび」としても成立している。愛のないところのエッチも可能だし、成立している。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
エッチは愛の部分であり、同時に、あそびの一種なのである。ここに、エッチをするということのむずかしさがある気がした。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日
普段、だれともエッチまではしたいとはおもわないのに、キミとならエッチをしたいとおもえた感覚。
— 桃色の蜘蛛 (@hidehimuro) 2019年6月28日