社会人基礎力(①労働するちから、②食事するちから、③セックスするちから)について

山極寿一著『父という余分なもの』をよみながら、社会人基礎力とは、なんだろうと、かんがえている。

この本をよんでおもったのは、経産省のいう社会人基礎力は、産業人基礎力みたいなものだということであり、また、本当の意味での社会人基礎力とは、①労働するちから、②食事するちから、③セックスするちから、の3つなのではないかということだ。

①朝、おきて、仲間だったり、みずしらずの他者と、いっしょに「はたらく(労働する)」ことができて、②お昼休憩や仕事をおえてからの夕方に、仕事仲間や友人知人、あるいは家族とともに、歓談しながら、「食事」をとって、③夜、パートナーと愛しあって(セックスをして)、家族・家庭をきずいていく。

むずかしいことをかんがえなければ、これが、人間のもっとも基本的な姿なのではないか?と、おもったのだ。

しかし、現代社会では、この①~③のことが、できない人間がふえているようにおもう。

できなくても、まったく、かまわないとおもうのだけど、しかし、メディアなど、世間は、①はニートやひきこもり、②はランチメイト症候群(俗語では、便所飯)、③は結婚しない・できないひとの増加、などと揶揄しているという現実がある。そして、「それらをやりたくても、なぜか、うまくできない」ということで、自殺までかんがえるほど、真剣に、なやんだりしている人間もいる。

なんとなくだけど、上にあげた3つのことが、現代社会では軽視されていて、それが原因で、ひずみがうまれて、歯車がくるったように、ガタガタな社会になっているのではないだろうか、などと、ぼくはすこしおもうのだ。

いまの社会には、①~③のことをわかいうちから、まなぶことができる場所が、ほとんどないとおもうのだ。学校では、まず、まなぶことはできない。大学でも、ほとんど無理だろう。大規模で、歴史があって、つぶれない大学なら、理事会や事務局がユニークであれば、できるかもしれないけど。

労働というと、生産性や効率性ばかり、もとめられていて、「はたらくことで社会参加できるよろこびをしる」ことは軽視されている。スタインベックの小説から感じられる「労働のよろこび」みたいなものは、現実で、感じたことは、ほとんどない。

食事についても、その奥深さは軽視されているとおもう。誰かと歓談しながら、たのしく食事をとることには技術が必要だし、個人経営の飲食店で、あたりをひくには、嗅覚とか、勘とか、技術とかが必要だ。これらは、すべて、社交の腕前のことなのだけど、自分で街あるきをするか、社交の腕前をもった先輩などを自分でみつけて、おしえをこうしかない。

セックスには、純粋に愛をはぐくむという行為だけでなく、フェティシズムみたいな倒錯した世界があったり、SMみたいな精神的な快楽を追求した世界があったりして、奥がふかいのだけど、そのへんのことは、けっこうタブーになっている。

こういうのは、すべて、所属している集団の文化を背景にしているのだろうけど、そもそも文化というのは自然に身につくものではないとおもうので、軽視してはいけないとおもうのだ。

文化というものは、継承しつつ、時代にあわせて、かわっていくものだとおもうけど、あるいは、ぼくがここに長々とかいてきたことの問題の核心には、「文化の継承がなくなりつつある」ということがあるのかもしれない。茶道の作法とか、そういう伝統文化のことではなくて、もっと生活に直結した生の文化というか、そういうものへの感度が、なくなってきているというか、そんな気がする。

とにかく、社会というのは、単純化すると、①労働、②食事、③セックス(性)で、なりたっているとおもうので、その3つに、文化という肉づけをしっかりしていって、その文化をまとった①~③のことをしっかり継承していくところに、社会人というものが成立していくのだとおもうのだ。

ぼくのまなびのフィールドとしては、②の食事については、けっこう開発できていると納得しているのだけれど、①と③については、まだまだダメだ。