病気であることをつきつけられたときに感じる孤独

二十歳くらいのときに、紫斑病になった。

結果的に、紫斑病だったのだけど、はじめに町医者にみてもらったときに、「ないとはおもうけど、白血病だったらたいへんなので、血液検査をしておきましょう」といわれた。あとから、おもうと、いたずらに、不安をあおる町医者の言動は、配慮がかけていて、最低だ。

そのときは、ちょうど年末で、検査をしたあとは、年越しで、1週間も、結果をまたなければならなかった。

不安でしかたがなかった。

目のまえが急にまっくらになった気がした。「もし、白血病だったら…」。そうおもうと、いきたここちがしなかった。

不安をうちけすために、『ドラゴンボール』をずっとよんでいたことを記憶している。不安を感じるたびに、ページをめくっていた。

病気が、目のまえに、あらわれたとき、ほんとうに孤独になった。

幼少のころから、耳鼻がわるくて、小学生のとき、真珠腫性中耳炎のうたがいがあると医者にいわれ、検査をした。結局、なにごともなく、大丈夫だったのだが、このときも孤独を感じた。

母親につれられて病院に、検査にいったが、「いまから検査をうける人間」と「検査をうけない人間」とでは、まったく、すむ世界がちがうような距離を感じた。

26歳のとき、副鼻腔炎がひどくて、手術をした。このときは、いますぐに死にかかわるような病気ではなかったが、しかし、それでも、やっぱり不安はあったし、「いまから手術をうける人間」と「手術をうけない人間」には、おおきなへだたりがあるように感じた。

「いまから手術をうける人間」が感じる不安とか、繊細なところを、「手術をうけない人間」たちは、ほとんど、何にも気がついていないようにおもえた。それに、すごく孤独を感じた。

まえの患者の手術がおしていて、予定の手術開始時刻よりも、数時間おくれていたので、病室のベッドでまたされていた。筋肉注射で麻酔をしたことで、一度は意識がとんだが、まち時間のあいだに、ききめがきれてきて、意識が回復してきた。自分のまわりには、誰もいなくて、予定より、手術開始がおくれているということを誰もしらせる気配もなく、ずっと放ったらかしだった。「手術をうけない(病気でない)人間」は、「いまから手術をうける(病気のある)人間」の意をほんとうのところでは、くむことはできないのだろうか。

とにかく、病気であることをつきつけられた人間の孤独を、健康な人間が理解することは、とてもむずかしいのだとおもう。