ひとを愛すること。それを言語化すること。

これまで、いかりとか、かなしさとか、不愉快さとか、うれしさとか、そういうフレッシュな気もちをのがさずに、いきおいで、とにかく、なんでもかでも、ことばにしてきた。感情のうごきをとらえて、「なんでもよいから、ことばにしなくっちゃいけない」というかんがえのもと、やってきた。

最近、そういうのは、もういいかなっていう気が、ちょっとしてきた。まあ、ピタッと、まったくやめてしまうことはないだろうが。しかし、そういう感じの意識がある。すこし、意識が成熟してきたのだ、という気がしないでもない。くわえて、ことばをこれまでのような感じで、浪費するのは、ちょっとちがうかなっていう気がしないでもない。

これからは、もうすこし、しっかりと表現できるようになりたい。そんな段階にきているとおもっている。

となると、大問題にぶちあたる。しっかりと、ことばにすることなんて、当方、もちあわせていないのだ。

重要なのは、ひとりひとりの個人にとっての、まとまりのない感情の言語化であり、まとまりのないかんがえの言語化なのだ。それ以上のことは、アマチュアにとっては、ほとんど不要なことなのだとかんがえている。

世のなかは、しょせんは相対的な世界であって、どれだけ高尚な理論をとなえても、ながめる角度をすこしずらせば、たちどころに、「ただしくなくなる」のである。「どちらも、ただしくない」、あるいは、「どちらも、ただしい」にもかかわらず、それぞれの正当性を主張しあうような、不毛な議論には、アマチュアのぼくは参加しない。

「あぁぁ、そうですね、なるほどねーーー。」とか、そんな他愛のないことばで、すべてを表現できるような技法があればいいのだが。箸にも棒にもかからないような、しかし、だれもが平和な気もちになって、居心地のよさを感じられる感情の表現、思考の表現をできる技法とか、ルールを構築できないだろうか。

「生ビール、もう一杯」
「手酌で、酒、のみましょ」
「もう一杯いける?」
「この値段で大瓶なんやで♥️」
「最後に、みそ汁とご飯、たべようね」
「この赤だし、魚はいってるねんで」
「もう1軒いこう♥️」

「相手のことに、ほとんど興味がない。自分が一番かわいい。」としか、表現することができなくて、しかし、それでいて、「他者のことを人一倍、気づかっている」という、そういう意識のありかたがあるのだが、この距離感のことを端的に、うまくいえないのが、もどかしい。「他人のことに、興味がない」としか、いえないことに、限界を感じている。

「あなたのもつ、そういう性質のことをすごくすきなのだけど、かならずしも、あなたという人間そのものがすきなわけではない。あなたのもつ、その性質は、あなただけがもつものではないので、あなただけが特別にすきなのではなくて、おなじような性質をもつ人間がいたなら、ぼくはそのひとのこともきっとすきになる。だけど、あなたという人間は、その性質をもっているので、ぼくはあなたという人間のことが、すきなのです。」

だいたいこんな感じなので、どこかで、ことばを捨てなければ、いけないとおもっている。本当のところで、他者のことに興味をもつためには、一度、ことばから、はなれなければいけないとおもっている。30年弱、いきてきたが、「あなたそのもの」のことをすきになれた他者が、本当に、3、4人くらいしかいない。