行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題などに興味があります。「自分のこと」をことばで表現することで、こころのゆたかさをはぐくんでいます。このこころみのひとつひとつが、だれかのちからになっていたとしたら、とてもうれしいです。

個人間の人間関係と集団間の人間関係を両立させることのむずかしさ

自分以外のなにものかのちからによって、関係をたちきられるというのが、やっぱりある。双方、個人のおもいとしては、つながりをたちきりたくはないが、環境がそうさせなくなり、その環境の理屈に意識がひっぱられてしまい、関係をたもつことをあきらめてしまう。

たとえば、会社から任意退職したものや、やといどめをくらったもの、あるいは円満退社でなかったものなどと、会社組織からはなれたあとも関係をたもつことは、いくら個人同士で、つよい関係をもっていても、なんとなく遠慮してしまったりして、関係を継続することが、はばかられることはないだろうか。

親戚づきあいなども、そうだ。いとこ同士がいくら仲よしであっても、その親同士が不仲であれば、いとこ同士にとっては、なんの道理もないにもかかわらず、すこしずつ疎遠になっていき、顔をあわせること自体をためらうようになってしまうことはないだろうか。

個人間のつながりよりも、集団や組織を介したつながりが、ひとびとの意識のなかでは、つよいような気がする。すくなくとも、ぼく個人としては、そういう圧迫を集団から、つよく感じている。つよく感じてしまっている分だけ、集団をとびこえて、個人間のつながりをきずくことをためらってしまい、うまくやることができない。

なんの理由もなく、ひとに関心をもったり、すきになったりできるような、脱観念的な意識をしっかりともちたい。

とはいうものの、ぼくは、「"あなた"には、この線をこえて、はいってきてほしくない」、あるいは、「しっかりと手続きをふんでから、この線をこえてきてほしい」という境界をしっかりもっている。内と外という観念的な線引きをしっかりとしている。

ぼくは個人間の関係を特にたいせつにしたいのだが、しかし、それとおなじくらい集団間の関係の価値もみとめているのだ。矛盾をかかえているのはしっている。

この矛盾のなかでも、縦横無尽に関係をもつことができるように、「繊細にも、おおざっぱにも、社交をすることができる技術」を身につけたいというのが、率直なおもいだ。スマートな社交をしているひとをみると、やっぱりかっこいいとおもうし、なんといっても、たのしそうなのだ。自分も、スマートに社交をしてみたい。こればっかりは、社交の場に、足をはこんで、おおく経験し、練習をくりかえすしかないとおもっているので、何度失敗したって、めげずにつづけなければならないのだ。だから、これまでどおりの調子で、ひとづきあいが、わずらわしくなって、憂うつになってしまわない程度に、ゆるく継続しようとおもう。