母校への破壊衝動(非常に不快な同窓会案内)

高校の同窓会がある。また案内がきている。

高校の同窓会会報とか、案内をみるたびに、たいそう不快な気になる。これは、いったいどうしたことだろう。

ぼくがかよっていた大阪府天王寺高校は、かたよった思想で、多様性をみとめないところや、マイノリティへのケアの精神が皆無なところがある、いやらしい高校だった。優勝劣敗をほとんど唯一の価値としていて、共存共栄などは、すこしもみとめていない、とんでもない進学校だった。

このような学校に愛着など、もてるわけもない。だから、いまさら、同窓会などといわれても、なつかしい気には、ほとんどならないし、もう一度不快な気になりたくないから、基本的には、いかないつもりだ。

いかないのだったら、いちいち、こんなことをかく必要はないとおもう。しかし、当時の教師たちもくるらしいので、いってみるのもいいかとは、すこしおもう。だから、こんなことをかいている。

なぜ、「教師たちがくるから、いってみるのもいいか」とおもうのかというと、それは、ひやかしの気もちがあるからだ。決して、彼らをなつかしむ気もちがあるのではない。ぼくの学校ぎらいは、教師ぎらいとむすびついているので、彼らをなつかしむなんて、とんでもないことだ。

ふつう、同窓会というと、なつかしんだり、未来の関係を構築するための再会だったり、そういう意義や目的があるようにおもう。たぶん、天王寺高校は、これを唯一の価値としてしか、みとめていないとおもう。

しかし、ぼくの価値基準は、そういうものとはちがう。ぼくにとっての同窓会とは、大多数のひとが、「学校はすばらしい」と無自覚に称賛している虚構を破壊し、否定する機会なのだ。多数派の理屈がただしいと盲目的に信じ、無自覚に少数の異端を排除している素朴な人間に、「あなたの"ふつう"は、わたしの"ふつう"とは、ちがう」ということをつきつける機会なのだ。

同窓会の案内文には、「弁護士になって、自前の事務所を開業しているひともいるときいています。みんな、夢にむかって、あゆんでいるとおもいます。これをきっかけに、再会し、夢をおおきく、ひろげていきませんか!」みたいなことが、かかれていた。

まったく、おそろしい。

こんなのに賛同したくないので、どうせ、いくなら、仕事をやめて、もう一度無職、ニートになっていなければならないと、ある種の使命感をもって、おもったりしている。なんなら、軽犯罪くらいなら、おかしている方が、さらによいかもしれない、という血まよったことすら、おもってしまいそうだ。とにかく、教師たちに対して、「あなたらの教育は、こんな堕落者をうんでいたんやぞ!」という事実をつきつけてやりたい。

われながら、ゆがんだ性格をしているとおもう。

余談だが、ぼくはできないことがおおいが、しかし、そのできないということを汚点とはおもっておらず、実は肯定している感じもある。

まともに就職できなかったこと、まともに会社組織勤めをできないこと、まともにはたらけないこと、まともに人間関係をきずくことができなかったことなど、いろいろできないことがおおくあるが、これらのことをぼくはまったく汚点だとはおもっていない。

しかし、天王寺高校に所属していたということは、ぼくの人生で唯一、汚点だとおもっていることかもしれない。無用だとはおもうが、念のため、現時点では、そのようにおもう、とだけ、最後に、つけくわえておく。

2019/8/3 15時