習慣的に運動をできるようになって、肉体が変化してきたけど、三島由紀夫とか、松本人志のような未熟なマッチョ思想に傾倒したくはない。

一年間も、ジョギングを習慣的に継続してきたものだから、肉体的な変化が、すこしある。体つきが、すこしだけど、かわってきた。

体つきだけではなくて、体力そのものも変化してきている。

以下に、今週2回おこなったジョギング記録をのせる。

8/13
朝7時半から、43分間で、5.5kmはしった。1kmを7.8分ではしるペース。
8/16
17時から、21分間で、3.8kmはしった。1kmを5.5分ではしるペース。

43分間、5.5kmもはしることができたのに、今日はすごくつかれたので、はしりながら、「なんでや?」とおもっていたのたけど、ペースが全然ちがっていたので、納得した。調子にのってはいけない。

正直なところ、この肉体的な変化は、うれしい。筋肉がついてきたためか、姿勢がよくなったし(身長が1cmくらい、のびた。)、みた目も、貧弱な感じから、ふつうくらいにはなったような気もする。

もう一度、正直にいうと、男の子である以上、「男らしさ」ということには、やっぱりコンプレックスは多少なりともあったので、この変化は、コンプレックスが解消された気がするので、その意味で、気分としては、すごくうれしい。まったく、たいした変化ではないのだけど。

スポーツという「軍隊的で、根性論丸だしで、優勝劣敗の競争原理」の思想が、だいっきらいだったので、それとはちがう思想にもとづいて、運動を継続することができるようになって、肉体的な変化もおきていることが、とてもうれしい。もとづいている思想とは、基本的には、竹内敏晴だ。

だけど、こうなってくると、三島由紀夫とか、松本人志みたいなダサい感じで、肉体改造に、とりくんでしまわないかという、こわさが生じてきた。これが次のテーマだ。

根気がなくて、なまけもののぼくのことだから、筋トレまでは、しんどくてやらないから、まあ、大丈夫だとはおもうが。

男性性へのコンプレックスのために、女性的であることを自己の存在証明にしてきた人間が、なにかのはずみで、そのコンプレックスが解消されたとき、ゴリゴリのマッチョな思想に傾倒するということが、ふつうにおこると、ぼくはかんがえている。ぼくは、それをすごくダサいことだとおもっている。ダサいと、やわらかくいったが、率直にいうと、コンプレックスがあった分だけ、「元おなじひと」に対して、排他的になるから、危険なことだとおもっている。

個人の自由なので、松ちゃんのことも、三島由紀夫のことも、どうでもよい。そもそも、彼らのことをほとんどしらないし。だけど、ぼく個人の思想としては、彼らのような変貌は、すごく未熟で、ダサいということなのだ。

ぼくの心身の変化は、そういうものではないと、自戒のためにも、いっておく。