ほろびゆく組織。功労者をたいせつにしないのは経営的にダメやとおもう。阪神タイガースがそうやん。

「何かが、ほろびゆくさまをみるのは、ちょっとよい経験だ」とか、おもったしりて、すこしおもしろがろうと意識をきりかえた。ぼくが、深刻に問題意識をもっていたって、たぶん、すぐにはつたわりっこない。ちいさなことから、地道にはじめて、誰かが気づいてくれれば、いいや。。。

うえばかりみて、あるいている人間には、どうやら、自分の足もとは視界に、はいらないようだ。

彼は、ぐんぐんあゆみをはやめていて、調子はよいようだ。彼の視線の先にある山頂は、みるみるちかづいてきているらしい。ぼちぼち、この山を制覇できそうな手ごたえを感じているとか、なんだとか。

しかし、彼は、自分がはいているズボンの裾のさけ目から、ほころびがひろがっていることには、まったく気づいていないようだ。

ぼくは、そのほころびをしっているつもりだ。ことばにはできないが、危機感をもってはいる。

山頂にたどりついたとき、そのよろこびは、きっと、つかの間のものになるのだろうとおもう。足もとのほころびに気づかなかったために、身にまとっている衣服がボロボロになり、防寒の機能をもはや、うしなっていて、山頂のさむさに、たえきれないだろう。

功労者が、この土地をさる。

このながれは、まるで、掛布やバースをおいだしたころの、暗黒時代に突入する前夜の阪神タイガースをみているような気がする。

あいかわらず、当事者意識が自分にはないなあとおもうが、しかし、おかみのご意向は、そもそも、ぼくにはどうすることもできない話なのだと、わりきらなければならないのだと、おもいなおしておこう。