生活によろこびをあたえる自分本位のはたらきかたは、成立するのだろうか。

生活したかったら、労働せにゃならん。そりゃそうだ。

しかし、労働せにゃならんから、生活をおろそかにする、というのが実情だろう。なんかバグっている気がするなあ。

生活のために、労働があるんじゃないのか。
労働のために、生活があるのではないとおもうのだよ。

生活することに、よろこびを感じられるというのが、まず第一にたいせつなのだと、今日は感じた。

こういう自炊は、残業があって、19時とか、20時に帰宅したときには、とてもできっこない。ダルいもん。結局、外食か、お惣菜とか、弁当ですませてしまうのだろうから、そんなところに、生活することのよろこびは、あるのだろうか。

生活することに、よろこびを感じられるから、労働(はたらくこと)にも、よろこびを感じられるように、なるのではないのだろうか。

30歳代は、そういうサイクルでいきていこう。
20歳代最後の年は、その準備をしよう。

まずは、ぼくの生活によろこびという、うるおいをあたえなければならない。ここは、自己本位に、やっていこう。

ぼくの生活によろこびがうまれれば、きっと、ほかの誰かの生活にも、よろこびをわけあたえることができるだろう。

なぜなら、生活とは、ひとりでするものではないからだ。

生活は、文化というひろがりをもっている。
生活は、社会というひろがりをもっている。
生活は、経済というひろがりをもっている。

個人の生活は、あらゆるところに、つながっているのだ。

しかし、こうなってくると、どうやって、生活のために、労働をしていくかという最大の問題にぶちあたる。

ぼくの生活をおろそかにしない労働なんて、あるのだろうか。自分本位のはたらきかたなんて、ぼくのような平凡な人間ができるのだろうか。
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