ダルいって感覚とのつきあいかた。そして、これからの自分のありかた(はたらきかたとか)について。

率直にいうと、自分の基本に、何かに対して、つねに「ダルい」という感覚がある気がする。

ほんとうに、ダルい。

しかし、何に対してダルいのかは、わからないし、ほんとうの問題が、ダルさによって、かくされている気もするから、いらだつ。ムカつく。

ダルくなって、いらだって、ムカついて、そして、そのコントロールできなさに、おちこんでしまう。

そんなわけで、「酒でものまにゃ、やってられん」という気になって、酒をのむ。酒はよい薬で、ダルさがきえて、ポジティブさが、つよくまえにでてくる。しかし、酒にかぎらず、思想によっぱらうこともふくめて、結局、まやかしにすぎず、よいがさめたあとに、むなしさという副作用がでてくるので、こまる。まあ、これは二日酔いみたいなものなので、すぐにきえるが。

梅棹忠夫さんは、自分のことを「あかるいペシミストや」といっていた。ぼくにも、その感覚にちかいものがあるとおもっているので、その意については、よくわかるが、いまのぼくは、それにはなることができない。ダメだ。

あかるさとペシミズムを同時に、たもつことなどできやしない。どちらかの極によるしかない。まんなかにいくことはできるが、それは、どちらでもないという状態にすぎず、それじゃあ、いきているここちがしない。これも、ダメだ。

それでも、最近は、このダルさがでてくるタイミングをつかみつつあるようにおもう。これは、希望だ。

何に対して、ダルいのかは、いまだ暗中模索だが、ダルさが姿をあらわす瞬間は、まえもって、つかめそうな気がしている。わかっていることは、休日がおわり労働がはじまるまえの日の夕方くらいだ。

くわえて、何をしていると、ダルさがでてこないのかも、わかりつつある。ジョギングをしているときや、他者とのあいだにできた対話の渦のなかにいるときだ。

ただ、問題は複雑怪奇で、わりきって納得することが困難なのだ。

そのひとつが、ダルいとおもったときに、なにか、ことばがうまれるように、予感するということだ。

「ダルいんだけど、しかたがなく労働している。そうしないと、いきていけないんだから、がんばれ、自分。だけど、いまにも崩壊してしまいそうだ。ほろびてしまうまえに、なんとかしなくてはいけないから、ダルいなんて、いってられないんじゃないか。」というような、ぬきさしならない感覚を心身がもったときに、自己実現への欲求がつよくなり、自己表現しようとするちからがうまれるし、まなびたいという知的好奇心が活性化してくるような気がする。

ダルいから、はりきって、活動することができる気がする。ダルくなかったら、何もしないんじゃないかって、すこし不安がある。ダルくないジョギングなどは、1年も継続できているのだが、それはダルさがあるおかげのような気がしないでもない。

以上、桂正和ZETMAN』からうけた知的刺激による、自己実現のための自己表現。

備忘として、作家や書籍などをあげておく。
pha、hide(X JAPAN HIDE)、コリン・ウィルソン(『アウトサイダー』)

アウトサイダー (集英社文庫)

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