玉虫色の価値観が、居心地がよい。桂正和『ZETMAN』の読後の感想。

正義という、きわめて、あいまいな概念を問うて、結局最後は愛というわかりにくいものをもちだして、物語のパート1がおわった。

ZETMAN』は、おそろしく、玉虫色の物語だった。

登場人物のすべてに対して、「べつに、すきというほどではないが、きらいではないし、多少、このましくおもえるところもある」という感じで、感情移入していた。

ただ、主人公の神崎人(かんざきじん)のことは、すこしだけ、特別に気にいったのだけど、それはきっと、ぼくが、「自分がまもりたいものを、ただ無心にまもっているヒーロー」が、すきだからだとおもう。このあたりは、ちょっと、よくわからないので、いいつくせていないが、あえて、すこしことばにしてみた。

つらつらと、読後の感想をかいているが、よみおえた瞬間に、つぎのような感想がでてきた。

「自分はあまのじゃくな人間なのかもしれないな。みんながあそんでいた20歳代前半くらいまではあそばずにいて、家庭のこととか、仕事のこととか、そんなことを真剣にかんがえだす年ごろになって、あそびはじめている。」

最近は、ますます、いろんなことが、どうでもよくなってきている。すこしまえまでは、異常にためらったのに、けっこう簡単に「ウソ」をつけるようになってきているし。

なんか、「仕事、やめる、転職!」などと、さかんに、ことばにしているのも、多少、無理があるというのが、率直なところかもしれないという気もする。

はたらくということに対して、正直、ぼくは、あまり価値をみとめていない感じがする。はたらかなくて、人のお金でいきていけるようなら、それでもよいとおもう。

最近は、さっぱり、はたらく気力をもてなくて、定時退勤することが、ふえてきているし。とりあえず、いま、いきていけているのだから、はたらいて賃金をおおくえることなんかより、自分にとって、もっとたいせつなことがあるはずだとおもったり。

ZETMAN』には、ヒムロック風にいうと、「なにがいったいまともだというんだ」(SHAKE THE FAKEから引用)という思想が、ながれている。これが、この漫画をよんでいて、すごく、ここちよかったところかもしれない。

ぼくは、あまのじゃくというか、ただ単に、「あたりまえ」とか、「ふつう」という感覚を万人に通じるものだとしているひとに抵抗したくて、また、自分の主観的価値を普遍的な正義だとおもいこんで、ちかづいてくるひとから、距離をとって、にげたいだけなのかもしれないな。

以上、ねむたくなってきたので、ねる。