胡蝶の夢日記 行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題や民族学に興味あり。「自分のこと」を言語で表現することでみえてくる自己実現について、かんがえながら、ブログをかいています。社会性って、なんだろう?どうしたら、社会に参加できるのだろう。

ウソつきの変なひととして、あつかわれたことがくやしかった。

同業者と、教育について、お酒の席でしゃべったとき、「あなたのいっていることは、主観やん。おもいこみかもしれませんやん。」っていわれたことが、最近のあいだに2度ほどあって、とてもくやしかったので、もっと勉強しようと、ちょっと火がついたような感じになっている。

ぼくが、日ごろ、学生とのかかわりあいのなかで、みてきたこと、きいてきたことから、「大学は、せめて、こういうことをできるようにならなあかんとおもう。そのための制度と装置をかんがえる必要がある。うんぬん。」と、しゃべったときに、冒頭のように、「そりゃ、おまえのおもいこみや。」といわれた。

つたえかたが、まずかったのはある。「日ごろ、みてきたこと」をしゃべらずにいたのもまずかった。また、この酒の場で、日ごろみてきたことから、おもいつきで、くみたてて、しゃべっていたのも、よくなかった。この辺の手ぬき工事のために、ぼくの話には穴がおおくて、客観性がかけていたのかもしれない。

とにかく、「あなたのいっていることは、おもしろいけど、無理や。おもいこみや。おもいつきや。そんなことは、できない。」などといわれて、まるで、変なことをいっているホラふきをみるような目でみられたことや、そういう空気をつくってしまったことが、くやしい。

ぼくのかんがえには、いつも多少の飛躍があるのは、たしかだとおもう。けっこう、おもいつきで、その場の感覚でやることもおおい。しかし、基本的には、自分の目でみて、肌でふれて、感じたことから発想して、ものの本でしらべて、人にきいて、くみたてているつもりなので、そこまで、荒唐無稽であるとはおもっていない。

事実のうえに、自分の良心のゆれをのせているから、客観性がぶれているようにもおもうが、しかし、そのこともふまえたうえのことであるから、ぼくのみた事実は、やっぱりひとつの事実であるとおもう。

まるで、ぼくが、ウソつきか、世間しらずの妄想人間みたいであると、その場の空気がかわっていくことを感じたことが、とてもくやしい。

この点だけは、切実に、がんばらねばならない。