自己実現するために必要不可欠な感覚。
今朝、インターネットにある、とあるひとの日記をよんで、気づいたことがある。
日記にかかれていたのは、つぎのことばである。
「最近、かんがえる時間が、おおくて、自信がなくなっていたので、お話をたくさんすることができて、たのしい時間をすごせました。」
ここには、重要な感覚が、ふたつかかれているとおもう。
ひとつは、「かんがえる時間が、おおくて、自信がなくなる」ということであり、ふたつは、「お話をたくさんすることができて、たのしい」ということである。
一部をきりとった、うえのことばだけでは、文脈をよむことができないけれど、日記全体をながめていると、かんがえていたこととは、「自分のこと」であると想像できる。主客について、なにもかかれていないので、これも想像するしかないけれど、おそらく、「ひとりで、かんがえて」、自信がなくなり、「誰かとお話をして」、たのしくなったのであろう。
ひとりで、「自分のこと」をかんがえすぎると、自信がなくなるのは、たしかである。人間は、他者とのまじわりのなかで、自分の現在の位置をしる。だから、ある程度のところまで、ひとりで、自分のことをかんがえたあとは、他者にむかって、うちあけるなり、共有するという経験をもたなければならない。そうしないと、自分の位置をみうしなってしまい、自分のかんがえや気もちが正常なのかどうかが、わからなくなり、自分を信じることができなくなってしまうのである。
この日記の後半部であるが、「お話をたくさんすることができて、たのしい時間をすごせました。」というところがよい。この感覚は、とてもたいせつだ。はなすという身体的な行為をたのしむことができるという感覚をたいせつにしたい。
そして、あとひとつ、つまり、3つ目の気づきを、ここで、おもいついた。
このような感情や思考をもった感覚を、しっかり自覚していて、それをインターネットという社会的な場に、文章化したかたちで、ことばにして、表現するという感覚をもっていることも、とてもたいせつだ。
この3つの感覚をもっているということが、自己実現するために、必要不可欠なのではないかと、ぼんやりとおもったりしている。
ともかく、うえの日記から、ぼくとおなじ感覚を、ちゃんと他者ももっていて、共有できることなのだとしることができて、よかった。この感覚をもっと鋭敏にして、言語化できるようになれば、なにかの役にたつんだと、信じてみようとおもう。