行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題などに興味があります。「自分のこと」をことばで表現することで、こころのゆたかさをはぐくんでいます。このこころみのひとつひとつが、だれかのちからになっていたとしたら、とてもうれしいです。

自分の気持ちをコントロールするための練習について。「感情表現が苦手」とのつきあいかた。

気分とか、気もちとか、感情に分類されるものは、「感じる」ということをしなければ、表現できないとおもうのである。「かんがえる」ということや、論理などという技法に、はしったところで、よほどの文才がなければ、感情は表現することはできず、相手につたわらないようにおもう。

このようにおもうので、たとえば、たのしかった経験をつぶさに記述して、その記述の最後に、「たのしかった」とか、「ちょっぴりかなしくもあった」とか、そういう簡単な感情表現をするだけで、かえって、しっかり感情を表現できて、気分のことや気もちのことなどが、相手につたわるとおもうし、自分でも自分の感情の質感がわかるとおもうのである。

これは、なにもないところからのおもいつきではなく、司馬遼太郎梅棹忠夫のエッセイの比較をとおして、みえてきたことなのである。

司馬遼太郎梅棹忠夫の文章表現は、全然ちがうが、その文章から、感じられることは、きわめてちかいようにおもえる。思想的にちかいというのもあるが、第一に重要なのは、表現のしかたがちがっていても、思想を伝達するために必要とおもえる、感情に関する表現をどちらもしっかりできていることである。

これについて、司馬遼太郎のような、表現することに才のある人間は、やや難解とおもえるような、いいまわしやことばをつかうこともあるが、梅棹忠夫は、いいまわしもことばも、まったく平易である。梅棹忠夫の文章が、平易だということは、ぼくがいうまでもなく、よくいわれることである。

うえにかいた、「たのしかった経験をつぶさに記述して、その記述の最後に、『たのしかった』と、簡単な感情表現でしめる」という表現方法は、梅棹忠夫のエッセイの文章にならったものである。ぼくは、こういう文章をかくことをもっと訓練したいし、教育の現場に、ひろく浸透させたいとおもっている。

文豪でもない平凡な人間には、ことばたくみに、自分の感情表現をできないということは、あたりまえの話なのである。そもそも、日常会話のなかでつかっている感情表現は、簡単なことばばかりではないだろうか。

たとえば、「今日、友だちと、かくれんぼをして、ぼくはずっと、鬼にみつかることなく、かくれることができたので、たのしくて、うれしかった。でも、ずっと、ひとりだったので、ちょっぴりさびしかった。」というのが、基本のかたちで、よいとおもう。あとは、もっと具体的に状況の記述をし、その時々の気もちを平凡なことばで、あらわせば、十分だとおもう。おそらく、これのつみかさねのさきに、自分を理解するということがあるのだとおもう。多少、飛躍するが、つまり、これが教養を身につける基礎訓練なのではないだろうか。

自分の気もちについて、たとえば、「自分の気もちは、ふたつにわかれているとおもえる。」という内面にある気もちわるさを分析して、その原因などをかんがえるのも必要だとおもうが、平行して、その気もちわるさなどについて、多少、乱暴にでも、感情の表現をやることが必要であるとおもう。つまり、これが、ぼくが、インターネットをつかって、SNSなどで、やっていることなのである。