教育とは、なにか。大学職員がおもうこと。

研究とか、表現活動に軸足をおいているひとと、お話をするのが、とてもたのしい。

かれらは、ぼくの知的好奇心をかきたててくれるし、ぼくの知性に対するあこがれの気もちをみたしてくれるし、ぼくの表現欲求をも、うけとめてくれる。しらないことをしるよろこびを味わわせてくれて、「明日には、"これ"を勉強しよう!」という意欲をかきたててくれる。

ぼくは、かれらとの対話の場に参加することで、そこに、教育的な意味をもった空間が成立していることを感じるのである。

ところで、教育という仕事に軸足をおいているひとと、はなすとどうだろう。

ぼくは、かれらと話をしても、なんにもたのしくない。むしろ、不愉快なことがおおいくらいだ。

それは、なぜか。

理由はわからないが、かれらからは、自分のものさし(尺度)で、このぼくの発想をはかるばかりで、ぼくにも、ものさしがあることをみとめていないような、そういう息ぐるしさを感じる。ひとのことばをかりると、かれらは、「ぼくのなかにあるエスノセントリズム」を指摘するが、「かれら自身のなかにある"それ"」に、気づくことができていないような感じがある。そんな気が、ぼくはしている。

うまく、この違和感をことばにすることができないが、とにかく、教師といわれるひとと、話をしても、なんにもおもしろくないのである。

以上は、この間、ぼくが感じたことである。他意はない。