社会性を心身にはぐくむきっかけとなる場をつくりたい。大学職員として、それを教育の現場に位置づけていきたい。

教員と職員が、「おっ、これって、いいよね。」と話がはずんだとき、すぐに、行為にうつせないというのが、まず、疑問だ。どこにいるのかもわからないお偉いさんに、うかがいをたてるために、まずは手続きのための窓口をさがさなければならない感じの煩雑さがある。いかにも形式をおもんじる学校らしい。他人事にはできないが、まるでカフカの小説のようで、おもしろい。

もうひとつ疑問なのは、仮に、ちいさなことから、はじめたとしても、それは業務のひとつにはならずに、ボランティアみたいなあつかいになる感じがあることだ。こういう空気があることは、教職員の自主性をおおきく、そこなっているとおもう。「食事という経験は、社会性をはぐくむ」というかんがえを検証するために、いったいいくら、学生にお酒やご飯をごちそうしただろう。これは、まったく自分のかんがえをふかめるためにやっていることなので、身銭をきることをいとってはいないが、そもそも経費でやれないというのが、バカげている。

教育および研究が、なぜ学校という、さびついた機関に、しばられなければならないのだろう。

ひとつは、資本の問題だろうか。ほかは、権威か。設置認可だなんだという文科省のお墨付き。そして、世間だ。あとは、研究者や教師に、金もうけしちゃいかんみたいな戒律があることだろうか。

べつの文脈で、教育をやれるようにしたい。

林竹二と竹内敏晴の対談本に、『からだ=魂のドラマ 「生きる力」がめざめるために』というものがある。教育に関する本である。タイトルが内容のすべてをあらわしている。

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

からだ=魂のドラマ―「生きる力」がめざめるために

ぼくはこういう文脈のことをやりたい。

ところが、社会性を心身にきざみこむことや、いきていくちからを心身がつかいこなせるようになることなど、そういうものは、学校という教育の場ではできないこと、というよりも、不要なことなのかもしれないのである。

そもそも、ここのところで、組織のありかたと、志向性が一致していないから、つかれるのかもしれない。

hideは「ぼくはロックに依存して、社会性ができあがった子どもだった」といっている。ぼくは、居酒屋のマスターだったり、市井のひとびととのかかわりあいのなかで、社会性をはぐくんでもらった。

世のなかに、こんな場があるのだから、学校にだって、ある方がよいとおもっていたのだが。

やれるだけやってみて、ダメなようなら、さっさと見きりをつけよう。