自分の意思で運動することの教育的価値について。大学職員が、6.2kmを35分で、はしれるようになった経験をふまえて、かんがえる。

今日は、といっても、もう昨日なのであるが、22時まえから、ジョギングをした。6.2kmを35分で、はしることができた。1km、5分30秒ちょっとのペースである。着実に、自力をつけていることがわかって、おもしろい。

ちょっと調子がよい感じがしたので、3.1kmのおりかえし地点から、スピードをすこしあげてみたのであるが、これがまずかった。スピードをあげると、500mくらいで、一気に息がみだれて、はしることが嫌になるくらい、つかれてしまい、からだがいうことをきかなくなった。

このあとすぐに、ペースをもとにもどしたが、2kmくらいのあいだ、ずっと、呼吸をととのえて、最後まで、はしりつづけられるように、からだをコントロールすることに、集中しなければならなかった。

ペース配分をミスったために、しんどくて、つらくて、嫌になったが、ある気づきをえたので、かえって、はしることのたのしさや味わいぶかさは、ましている。

「自分がいま、どういうペースで、はしっているのか」ということや、「このペースであれば、はしりつづけられる」ということなど、そういう感覚をからだで理解できるように、なってきた気がしている。今日、意識的にペースをあげてみて、すぐにダメになったが、このことについても、「このペースでは無理だ。からだが、いうことをきいていない。呼吸がコントロールできない。もとにもどさなければ、はしれなくなる。」と、すぐに気がついた。

しかし、さきにもかいたとおり、もとのペースにもどし、呼吸をととのえることに、手こずったように、"気がつくことはできる"が、"まだ、自由自在に、からだをコントロールすることはできない"のである。

これまで、ただ単に、衝動的に、はしってきただけなのであるが、自力がついてきたためか、うえのように、心身のことについての理解が、はしることをとおして、ふかまってきた手ごたえがある。

天王寺高校の体育教師は、よっぱらいが戯言をしゃべるようないきおいで、根性論しか、しゃべっていなかったので、ぼくは、かれらから、なんにもおそわっていない。

自分で、はしりながら、本をよみ、感じながら、かんがえた方が、みのりがおおかったのである。ほとんど気まぐれで、はしっていただけだが、心身のことについて、ずいぶんと、理解がふかまったと実感している。はじめから、自分でやればよかったと、多少、くいがのこる。

以下は、余談だが、ぼちぼち、ハーフマラソンを目ざしてみようかなどと、欲がでてくるのではないかという気がしている。もし、ハーフマラソンをはしれるようになれば、つぎは、フルマラソンになるのだろうか。それで、フルマラソンをはしりきることができれば、いよいよ、体育教師批判が苛烈になるかもしれない。批判するかどうかは、さておき、もしフルマラソンをはしるようになったならば、相当、心身について、理解がふかまっているはずなので、竹内敏晴が提言していた「体育と国語」を合体させた心身の表現に関する授業をできるようになるかもしれない。

からだが語ることば―α+教師のための身ぶりとことば学 (評論社の教育選書 (16))

からだが語ることば―α+教師のための身ぶりとことば学 (評論社の教育選書 (16))

 

とにかく、以上は余談なのだが、こんなふうに夢想すると、夢はひろがる。コブクロ小渕健太郎だって、趣味で、はしっていたことが高じて、大阪マラソンで、フルマラソンに挑戦したことで、なんかしらんが、「42.195km」という歌までつくったし、いつのまにやら、大阪マラソンアンバサダーに就任しているし、人生、なにがおきるかわからない。


42.195km

TIMELESS WORLD

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