なにを信じて、いきていくのか。

素朴な疑問が、ふと、うまれた。

ふつう、ひとは人生のことを、だれかに相談したり、するのだろうか。

自分の人生について、相談するために、だれかに、はなしても、うまくつたわったためしがない。もちろん、そこには、ぼくの言語化する能力の不確かさによることがあるのだけど。だけど、ニュアンスすら、くみとってもらえた経験が、あまりにも、すくない。何度か、ためしてみたが、そのたびに、つたわらなくて、傷つくので、いつしか、人生のことを相談することをあきらめた。だれに対してのことかは、もういわないが、10歳代から20歳代前半にかけて、この虚無感はうまれた。

そういう経験があるのだけど、ちょっと角度をかえて、かんがえてみると、ふつうのひとは人生のことを他人に相談したりしないのかもしれない。だから、ぼくの相談することの真意が、つたわらなかったのだろうか。あるいは、意外な相談に、とまどっていたのかもしれない。

だけど、もう一度、角度をかえて、かんがえてみると、ぼくのいまの人間関係では、ぼくが相談したことについて、しっかり意をくんでくれるひとが何人もいる。親密さの大小にかかわらず、きいてみたことに、真摯にこたえてくれる。だから、ぼくはいま、紆余曲折しながらも、すこしずつ、治癒する方へと、むかっている実感をもつことができているのだとおもう。

謎だ。

謎だけど、いま、ぼくが相談をもちかけて、意をくみとろうとしてくれて、真摯にこたえてくれたひとびとは、とてもユニークな人間なのだということは、たしかだ。ぼくは、そういう感想をもっている。

最後は、やや飛躍するけれど、なにを信じて、いきていくのかというと、ぼくが、したしみを感じているユニークなひとびとたちからの回答を、ぼくなりに意味をくみとり、解釈したことを信じていくよりない。

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写真は、太陽の塔。このあいだ、国立民族学博物館にいったときに撮影した。