昨日まで、ずいぶんと、気分が、おちこんでいたので、ことばを消費しすぎた。
だけど、たくさんことばにしたおかげで、こころの奥に巣くう悪魔の正体がみえた気がしている。
悪魔の正体はなんだというまえに、悪魔がいすわる部屋のとびらのまえに、悪魔のちからに屈服し、悪魔にひれふす自分の分身がいた。仮に、その自分を「よわさ」と名づけておこう。
自分のことを、ことばにしていくと、その過程で、自浄作用がはたらく。つまり、なやみごとというのは、ことば化していく作業のなかで、客観視できるようになったりして、おのずから解決されていくことがあるのだ。
今回も自浄作用がはたらいて、すこしは、気がらくになった。
しかし、この自浄作用が、ぼくの場合は、おとし穴だったのだ。
「すこしは、気がらくになった」ことをいいことに、ぼくの「よわさ」は、「問題は解決されつつある」と"おもいこみ"をして、悪魔の部屋(問題の確信)にすすむことから、にげるのだ。
いつも、だいたいこのパターンだ。
昨日は、不安やまよいをたくさんことばにしたあと、「よし、明日には、腹をくくって、いま、しんどいことを上司につたえて、相談しよう。」と決心したのだ。しかし、ここで自浄作用がはたらいたことで、安心してしまったのか、今朝、おきると、「ちょっと、おちついてきたし、もう相談しなくてもいいかな?自分のちからで、解決しはじめたかもしれないから、あせらずに、ちょっとまっても、よいかもしれない。」とおもいはじめた。
たぶん、これがダメなのだ。「よわさ」が悪魔のまえに、ひれふした瞬間なのだ。
「真理は、いたい方角にある。その方角をむいて、死ぬ以外に、なにができよう」と、鶴見俊輔はいっている。
あっているか、まちがっているかは、わからないが、昨日、自浄作用がはじまるまえにあった「いたみ」が、さししめしていた方角をむいて、死ぬ以外に、なにができるだろうか。
自浄作用がはじまる寸前に、腹をくくって、決心したことをやってみるだけだ。それだけのことだ。