【書評・日記】鶴見俊輔の「退行計画」をよんで。いきかたがかわる文章との出会い。
梅棹忠夫の「アマチュア思想家宣言」が、ぼくにあたえた衝撃はおおきかった。そのおおきさにつぐ衝撃が、鶴見俊輔の「退行計画」にはある。いきていく方角が左右されるであろうと認識できる思想に、このたび、また、であうことができたという、よろこびが、かんがえることをやめさせる虚脱感として、あらわれる。
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2008/12/20
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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あたまのなかは脱力しており、からだはしずかに、ふかく呼吸をするだけであり、こころはまるく穴があいて、からっぽである。
「かんがえる」ということをこえたさきにある、なにかが、この感覚からはうまれそうな予感が、他者に、はたらきかけ、まえむきにいきるちからを腹の底にためていく。
他者に対して、ひらかれていく自分を、自分はながめている。
きのう、となりの部署の上司と、かえりのバスで、いっしょになった。
【上司】
きみは、いきかえりのバスで、本をよんでるみたいやけど、いったい、なにをよんでいるの?
【わたし】
鶴見俊輔をよんでいます。なぜって?
・・・。
自分の問題のために、よんでいます。いまは、鶴見俊輔をよめば、自分というつかみどころのないものをつかむことができるのではないかと、おもっているからです。
自分のことを、ことばにしつづけることで、みえてくるなにか。そういうことについて、鶴見俊輔をたよりにしています。
どれだけことばにしても、ウソっぽくて、いつわりの自分なのだけど、それをつづけるしか、しかたがない。
自分らしさをつかむには、これをやりつづけるしかない。
そんな感じです。
【上司】
なるほどなあ。…鶴見俊輔といったら、ぼくなどは、わかいときには、社会運動の方法をしるために、何冊かよんでいたけど、自分のいうような、よみかたはしていなかった。
ぼくが、わかいときから、やってきたことは、いまもそうだけど、~
~
バスのなかでの20分、ぼくは、かれをよくしゃべらせ、かれの話をよくきいていた。
ぼんやりと、ことばをならべていくことで、なにかがでてくるのではないかと予感し、期待したが、なんにもでてこなかった。
しかし、この空白の感覚が、創造的退行の夜あけまえなのだと、期待したい。
余談だが、よんでいる本の著者のことばはこびに、自分のそれが、ひっぱられることが、よくあるということに、気がついたことが、とてもおもしろい。おそらく、感じかたも、思考も、その著者に、ひっぱられているはずだ。
本のよみかたとして、自分なりに、正解だと納得できるのは、こういうときなのだと、最近はおもう。むかしから、ずっと、自分は、こういうよみかたをしてきたはずなのだ。
そのひっぱられ具合を、こうして、ことばにして、みえる化しているのは、よいことだとおもっている。