その声は、ぼくには、こころにひっかかるものとは、おもえない。
かれの歌声からは、個性をだすには、まだ、すてきれないプライドのかたまりが、邪魔をしている気がする。
などと、評論家ぶる自分は、さておき、「それをして(こんなところで、歌をうたって)、なにになる」という、嘲笑が、ぼくのこころの大半をしめる。
表情をくずして、あざわらうわけにはいかないので、ぐっと、こらえて、腹の底で、くくっと、わらう。その努力をほかにかたむければどうだろうかと。
そういう糞尿ほどにも価値がない想念が、以前は、自分のなかに、つよくあった。
この一年ちょっとのあいだに、それは、ずいぶんと、うすれていった。
つまり、こうして、「路上で、どうにもなるわけないと嘲笑されることを自覚しながら、それでも、夢をおいかける」人間と、おなじように、インターネットに、自己表現をしてきたことに、意味があったのだと、ここで気がつく。
こうして、目一杯、恥をかいたことで、同類の人間が、なにをいえるか、ということに、気がつく。そして、この表現には、お金にならない価値があるのだと、はっきりわかるのである。
ぼくをふくむ、かれらがやっていることは、つまり、鶴見俊輔の"座りこみ"と、なんらかわりのないことなのである。その行為の意味するところは、なんにもかわらないのである。
いま、ようやく、そうおもう。
そうおもえたことで、まえは、無個性だと、おもえたストリートミュージシャンの歌声が、妙に、ここちよく感じる。
これは、きっと、hideがインディーズのミュージシャンの音楽をほりおこした感覚にちかいはずだし、コブクロをみいだした、かれらの事務所の社長の感覚にちかいはずだとおもう。
ぼくは、いま、ようやく、この感覚から、自由が地平線のようにひろがっていくさまをみた気がしている。これを今後、ずっと持続できるように、たいせつにしたいと、切にねがっている。
JR大阪駅にて。進学相談会のあと、先輩に、お酒をごちそうしてもらった夜。2019/9/14