心と頭と体のたくましさをバランスよくきたえることで、集団や組織に「ちがう」と意思をしめすことができる態度をもつことができる。

ある集団や組織に対して、個人として、「ちがう」とかんがえることには、「ちがうという意思をしめす」ことって、市民としていきる人間がふつうにもっているべき態度のような気がしてきた。

実は、ぼくは、これが、ながくできなかった。できないというか、意思を対外的に、しめすことをあきらめていて、そうしなかったら、いつのまにか、それをできない人間になっていたというのが、正確なところだ。

いまから、このことについて、じっくりかんがえていきたいところだけど、このような態度は、国家権力なんかのプロパガンダとかに、とりこまれないようにするために必要なものなんだと、ぼんやりとおもっている。司馬遼太郎なんかがいっていることのひとつは、これなんだとおもうけれど。

とにかく、着想として、ああだこうだをのこしておきたい。

「ちがう」という意思をしめすには、おそらく、精神と思考のたくましさが、まず必要だとおもう。それから、もうひとつ必要なのが、肉体のつよさなのだと。

精神、思考、肉体がたくましくなって、ようやく、集団や組織に「ちがう」と意思をしめすことができるようになるのだとおもう。

ぼくは、最近、主観的には、肉体かがたくましくなってきたと理解している。7kmを1km5分台で、はしれるくらいのたくましさを肉体がもつようになった。

これにともなって、「ちがう」という意思を他者にむかって、しめすことが、まえよりも、できるようになってきた気がしている。もちろん、このことは、ずっと、できなかったことなので、なかなかに下手くそなのだけど。

これまでのぼくは、個人がもつ精神、思考、肉体のパワーバランスでいうと、思考がやたらつよくて、精神は不安定ではあるがエネルギーはおおきく、肉体だけがまるで貧弱だった。

いま、肉体のたくましさが、底あげされてきて、ちから関係が均衡してきている。あるいは、これによって、不安定な精神のエネルギーが、安定してきたようにもおもえる。その精神のエネルギーは、内向的なものだったが、裏がえして、外向的なものにすることができるようになってきたのは、肉体のたくましさのためかもしれない。

とにかく、いま、ぼくの精神はやっぱり、不安定なところがあるから、肉体のたくましさによって、「ちがうという意思をしめす」ことができるようになったちからを、内向的なときに、まちがってつかってしまうと、どうも、排外的な方向にむかってしまいそうな気がしている。