ナチス化する企業組織

あんまりいいたくないが、いまの職場で、「このひとのようになりたい」とおもえる人間って、ほんとうに、いない。

あいまいにしか、いえないが、「このひとのように、社会参加できる人間になりたい」というのが、ない。まあ、ひとりはいるが、それは別の部署のひとだ。

「この組織で、このひとのいうことをきいていたら、このひとのようにしか、なれないんでしょ」と。これは、なかなかきつい。

あこがれの対象となるひとは、みんな、外の世界にいる。どんなひとなのかというと、しっかりと「個を確立している」ひとたちだ。

「あこがれ」とかいうから、ポピュリズムくさい、とかいわれるだろうか?しかし、個人である人間にあこがれをいだいているので、むかう方向は大衆ではないとおもう。だから、ぼくの志向する方向は、いまのところ、あぶなくない。個人という、孤独にたえられる人間を志向している。

ところで、なんとなくみえてきたが、職場の人間は、ほとんどが大衆なんだ。サラリーマンとは、つまり、大衆なのだろうか。役職のあるなしに、かかわらず、その精神は、素朴な大衆性をそなえているように、おもえる。無自覚なのか、あるいは、確信犯的に、無関心をよそおっているのか。

大衆に迎合する精神によって、組織が運動しているようにおもえてきて、たいへん不気味だ。たぶん、どこの組織も、こんな感じなんだろう。最近でいうと、関電しかり。

「激化する競争環境に、果敢にせめいる」みたいな、本質や理念のみえにくい、いさましいだけのことばをかかげ、方法論に終始するというありかたは、たいへん危険だとおもう。