ポピュリズムに埋没しないために、脱「共感の人間関係」をいきてみる。

共感をともなう人間関係は、とてもたいせつだと、ぼくはかんがえている。

共感を悪用してきたひとびとが、むかしから、たくさんいるけれど、だからといって、共感そのものの価値を否定することは、ちがうとおもう。共感をあきらめた人間関係には、身体感覚が欠如していくものだとおもうし、なにより、虚無的になり、なにごとに対しても無関心になる。

否定されるべきは、共感を悪用する人間である。

まず、そういう立場に、ぼくはたとうとしている。

しかし、同時に、ぼくは一度、共感を排した人間関係のなかにも、はいりこむ必要を実感している。みずからが、共感を悪用しない人間になるためには、一度、「共感を排する」ということを行為しなくてはならない。

それで、ぼくは、おそらく、もうじき、いまの職場をやめることになる。なぜなら、ぼくは、いまの職場に愛着をもっているし、よいひともおおいので、なんだかんだ居心地のよさを感じているからだ。つまり、共感という海のなかに、おぼれてしまっているのだ。

はなしあって、たがいにわかりあうことをめざすのではなく、はっきりと共感しない立場をしめすには、どうしたらよいだろう。

ふと、あたまにうかんだのは、「退職願」を提出することだ。

しかし、ここで、だしかたが問題になるはずだ。「わかりあう」というニュアンスをすこしでも、のこしていると失敗するだろうとおもう。「やめるんだ」という硬質な意志をはっきりとしめすことによって、表現することが、必要となってくるようにおもう。

ぼくがポピュリズムのなかに埋没しないためには、以上のような行為と自己表現が必要なのだとおもう。

まちがいのないことだとおもえるのは、この行為は、「いたみ」の方角をさししめしているからだ。