「ふつう」でありすぎることの危険性

「自分は、つねに、だれともわかりあえず、ひとりである」とおもいこんでしまう、心身のこわばりが、むかしはつよくあった。とにかく、孤独がつらく、「なぜ、こんなにも、ひとりでいることが、さびしいのに、だれとも、ふかいかかわりをもつことができないのだろう。」と、煩悶することが、たびたびあった。

このようなぼくであるから、むかしから、ずっと、「ふつうでありたい」という、ねがいがある。孤独にくるしむ夜などは、自分が「ふつうでないこと」で、未来がさきぼそっていくようにおもえ、絶望する。

「なぜ、みんなといっしょに、ワイワイガヤガヤすることに、うんざりするのだろう。みんなと、おなじように、違和感なく、あそびたい。」

「なぜ、人間関係を継続することに臆病なのだろう。どんな関係も、最後には死によって、継続はたたれるのだから、関係をもつことは、はじめから無駄なことだ、などと、あきらめてしまう。みんなと、おなじように、さきをみることなく、いまだけをみて、関係をもちたい。」

以上のことは、5年ほどまえからはじめた、こころみによって、ずいぶんとうすれてきた。特に、ここ2年のあいだに、加速度的に、孤独にたえうる心身のつよさをもちはじめたと、ある種の客観性をもって、自分を評価できるほどにまでなってきた。

しかし、それでも、まだ未熟者であるぼくには、「自分は孤独である」というつらさに、煩悶し、おおげさだが絶望しそうなほど、くるしい夜がある。

おそらく、ここに、ポピュリストがつけいる隙があるのだとおもう。

ここ5年ほどのあいだ、ぼくは「ふつうである」社会に、適応しようと努力してきた。自己を社会化する訓練をしてきた。それが、すこしはできるようになってきたと納得しはじめたとき、ぼんやりと「ふつうであること」のこわさを感じはじめた。

ふつうであるためのこころみとして、ブログやFacebookにかくという行為があるが、しかし、それらにかいている内容は反社会だ。反社会とは、もちろん、犯罪的という意味ではなく、批判的態度という意味だ。

「ふつうでありたい」という無意識的な欲求がある一方で、意識的に、反社会の方向性をもったことを行為してきた。その結果として、主観的に「自分は社会化してきた」という納得をもち、客観的にも、関係性のなかに、いきることができるようになってきた。実際、年齢も性別も経歴も出自も、なにもかもちがうひとびととの関係のなかで、自分らしく、たちまわることができるようになってきた。

最後の方は特に、まとまりなくなってきたとおもうが、気づいたことは、「ふつうであること」がいきすぎると危険であるかもしれないということであり、孤独にたえることができることの意義である。