ラーメン屋さんからまなんだ仕事のありかた

よく利用するラーメン屋さんがある。

その店には、母親とも、いっしょに利用するし、いまは他県ではたらく弟が帰省したときにも、たまに、いっしょにいく。弟などは、「せっかく大阪にかえってきたのだから、たべにいかなあかん。」といった、いきおいである。家族ぐるみで、このラーメン屋さんを気にいっており、「ちょっと味がかわったんちゃう?」とか、「麺のふとさ、かわったよな?」とか、「今日のは、いつもより、なんかうまかったで。」とか、寸評することも、しばしばある。

ぼくらは、このラーメン屋さんから、ラーメンをたべるということをとおして、家族間のコミュニケーションのきっかけをあたえられているのである。

以上のようなことが、事実として、おきているということをふまえたうえで、このラーメン屋さんのマスターの仕事のありかたをとらえてみたい。

想像するに、マスターは、おいしいラーメンをお客さんに提供するいうことにくわえて、そのさきに、それをたべたひとの人生に、なにかいろどりをあたえることをみすえながら、仕事をしているのではないだろうか。

今日、この店に、ラーメンをたべにいったとき、マスターが「最近、仕事の調子はどうなん?」と声をかけてくれたので、「やめようとおもっています。」と、ぼくはつたえた。「なんでぇ?がんばってたやん?もうながいことやってるやろ?」と、さらに、ききかえしてくれたので、いまここにかいているようなことをすこししゃべらしてもらった。

ともかく、ぼくは、うえのようなありかたを志向している。

この立場から、いまのぼくの職場のありかたをふりかえってみると、目のまえにある仕事のさきに、なにかをみすえながら、はたらいている人間は、ほんとうにすくない。そもそも、組織の体質的に、そういうものをもちにくい空気が蔓延しているようにもおもえる。目のまえの仕事に忙殺せざるをえない事情があるのだが、そんな理由づけが無意味なほど、人間や社会のことについて、なにごとにも無関心なひとが、幅をきかせている。

街のラーメン屋さんが、ひろく、人間や社会に対して、ひらかれている一方で、「大学という教育機関」に所属している人間が、閉鎖的であり、無関心をきめこんでいるのである。

このようなありかたで、いったい学生に、なにをまなんでもらうのだろうか。

この危機的状況に気がついているひと、理解できるひとが、ほとんどいないという現実をまえにして、なかなかひとりで、声をあげる努力を継続することは、むずかしい。いまのぼくの力量では、限界がある。

しかし、ここであきらめると、どこにいっても通用しないとおもうので、危機的状況をしっかり提示できるようにする努力は、継続して、やれるだけやってみるつもりである。ただ、やれるだけやって、ちからおよばずであれば、スパッと退職しようとおもう。みのりのないことをダラダラと努力してもしかたがないし、なにより、心身がこれ以上、消耗すると、とりかえしがつかなくなる。だから、時限をきめて、やろうとおもう。とりあえず、今年度中、つまり、来年3月までに、どうにもできなかったら、スパッと退職して、つぎの道をさがそうとおもう。

自分の人生のながれとして、そろそろ腹をくくらにゃならん時期に、さしかかっている気がしてならない。いきいそぎたくはないのだが、いきいそいでいる感がずっとあるのは、そういうことなのだろうとおもう。