「ちがう」といえない共感をしいる空気。

「ちがう」ということを主張しようと、つまり、「自立しよう」という自我の運動が活発になりはじめたときに、「共感」によって、それをはばもうとする空気がながれ、なんとなく相手のことをおもんぱかって、「ちがうというのは、やめておこう」と、みずから抑制するはたらきが意識を支配するのが、つまり、河合隼雄が『母性社会日本の病理』で、いっていることである。

母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

母性社会日本の病理 (講談社+α文庫)

ぼくのいまの職場は、この病理にあてはまっているとおもわれる。

この病理について、ある程度わかっているがゆえに、「いえない」自分でいることが、とてもくるしい。

こころが病むということに、理由など、あってないようなものだとおもうが、ぼくのいまの状況は、まちがいなく、病む局面のひとつではあるとおもう。

ぼくは、いま、治癒しはじめている、つまり、自我が確立されつつあることは、たしかなことだと認識しているが、一方で、いつでも足下をすくわれて、病んでしまいそうな、たいへんきわどいところにいるようだ。この病理に、まけない自我のつよさを手にいれたい。

しかし、冷静になって、判断することをこころがけてみると、わざわざ病む土壌に、積極的にいつづけていることは、おおきなあやまりをおかしているともおもわれる。

くらい顔して、はたらいているひと、おおいもんなあ。