【チャンスをのがさない②】場づくりのために、相手に、はたらきかける。

今日も、大学の食堂で、お昼をたべた。

食券をかって、食事をうけとるカウンターにむかおうとしたとき、ここのところ、いっしょに昼食をとることがおおい学生がふたり、あらわれた。ぼくは、みつけるやいなや、ちかづいて、「今日も、いっしょに、たべてもいい?」と、声をかけた。ふたりからは、「もちろん、もちろん」と、ふたつ返事でかえってきた。

まちがいなく、ひとつの食事の場が、うまれようとしているとおもう。なんか、とてもワクワクしている。場が、うまれるときって、こんな感じなのかな?っていう、発見のよろこびがある。

ひとがフラフラとあつまってきたところに、凝集性のある、なにか軸のようなものがそこにあれば、一気に、立体的な場が誕生するのかもしれないとおもう。

そして、その軸は、ぼくであり、学生なのである。それが、また、おもしろい。

だれによって、その場がうまれたのかというと、まちがいなく、中心的な人間がいるのだが、しかし、その中心は、「だれかひとり」というような統合の象徴としての人間がいるわけではなく、「参加者おのおのが、それぞれに中心的な人間である」というような、まさに円融無碍性によって成立しているとおもわれる。ぼくが学生をひきつけた中心であり、同時に、また、学生がぼくをひきつけた中心なのである。

おもしろい場が、うまれはじめているとおもうので、のがさず、行動している。

今日は、ふたりに、「来週は、ぼく、当番で、昼休憩が13時からだから、いっしょにたべれないかもしれないです。やけど、基本は12時から、ここで、たべてます。この場をひとつ、だれかとご飯をたべようかなと、気がむいたときに、あつまることができる場にしませんか。ぼくがいても、いなくても、君らがいてもいなくても、だれかが、いるかもしれないという想定で、あつまる場を、ぼくらで、つくってみませんか。こうして、ざっくばらんに、しゃべっていますが、『あの先生アホやった』という話をおもいだして、ここで、しゃべるだけでも、授業内容を復習できたり、かんがえがふかまる感じが、ありはしませんか。しっかりした食堂空間をつくるには予算がないといわれるだろうから、とりあえず、私設で、やりませんか。」と提案した。

これをきいた、かれらから、うける感じは、なかなか好感触であった。そもそも、かれらには、食堂の収容能力のひくさに、不満と問題意識があるから、これには、「おっ」と、おもうことがあるのかもしれない。どこの大学でも、おそらく食堂の問題は、ついてまわるのだろうとおもうが、どうだろう。これは余談。

知的好奇心のつよい学生たちなので、おしゃべりしていて、むしろ、こちらが勉強になることもある。よんでいる本の話や、本のよみかた、旅行にいった話、ダルい先生がいるとかいう話、なんでもかんでも、しゃべっているが、知性の筋が一本とおっているので、おもしろい。

うまく軌道にのせてみたいが、来週いきなり関門である。なぜ、こうも、間がわるく、昼休みの当番なんかが、まわってくるのだろう。視覚化できる場ではないので、うごきはじめに、場が成立していることを皮膚感覚で、感じられるくらいにまでは、一気に、はしってみたいが。

とにかく、おもろい食事の場をつくることに、興味がある。山極寿一も、「人間がゴリラとちがう点は、共食する点だ。」みたいなことをいっている。また、梅棹忠夫小松左京たちは、「貝くう会」などという、未来を研究し、大阪万博を準備する前段となる議論などをおこなう食事の場をもっていた。食事というのは、人間にとって、とても重要なところに位置づけられることなのである。

ぼくが自分なりに勉強してきたこととしては、「多様性をみとめ、同時に、個性をもみとめ、なにより、自由であることを尊ぶ」食事の場をもつことが、ひとりひとりの人間が知性と霊性を獲得していくために、とても重要なものなのだとおもうのである。