【書評・読書ノート(鈴木大拙『仏教の大意』)】理性的ではなく、霊性的に選択し、決断する。
「何km、何分」と、分別しながら、まえへ、まえへとはしっている。が、きざまれる時間などはない、無限の時間のなかで、その場から一歩もすすむことなく、とどまりつづけているような感覚が、ジョギングをしていて、たまに、うまれてくる。こういうとき、「ハアハア」と息はあがっているが、呼吸はみだれることなく、おちついているような感覚がある。
鈴木大拙から、自分の感覚を言語化するためのちからをかりている。
- 作者: 鈴木大拙
- 出版社/メーカー: KADOKAWA
- 発売日: 2017/01/25
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
ぼくの立場は、もはや、いうまでもなく、後者の仏教的、宗教的なものである。後者の場合、ほんとうに霊性的に直覚するには、「境地」にいたる必要があるようにおもえるが、ニュアンスだけはわかっているので、あえて、いいきっている。
前者のような、知性偏重では、率直に、身もこころも、しんどい。自分が、くるいつづけているのは、このためだとおもう。
大拙は、こうもいう。
「いまの職場で、意にそわない命令にも、したがい、心身がつらくとも、このまま一生懸命しがみつき、はたらきつづけなければ、生計をたてていく未来はない。30歳をこえて、転職はできないぞ。いまさら、手に職なんてつけても、だれも評価しないぞ。いまから大学院にすすむみたいな再チャレンジをしても、再就職なんて、できないぞ。」みたいな、知性的分別では、息がつまるばかりだ。
そんなばかなことをやめて、「さきのことはわかんないけど、いまやっていることは、たしかに、未来と地続きなのである。」という霊性的直覚的な選択の方が、心身が楽なのである。心身が楽ということは、ぶっこわれないということだから、「はしりつづけることができる」ということは最低限、保障されているということである。
宗教というのは、どうにも胡散臭いが、人間のなかにある宗教性まで否定するのは、ちがうとおもっている。創造的な仕事をやっているひとは、どのひとも、おそらく自分のなかの宗教性をしっかり開発しているとおもえるのである。そうおもうので、こっちの方で、しっかりやっていこうと腹をくくるのである。