学校という、人間を鋳型にはめる場に、「なんでもあり。しかし、なんでもなし。」みたいな、仏教的な場を成立させたい。

大学職員として、はたらいているが、つねづね、ある問題意識をもっている。学校に必要とおもわれる場がある。ぼくは今後、この課題解決にとりくんでみたくて、いまの職場では、私設の「食事の場」を、ちいさくつくって、課題解決にとりくみはじめている。

以下、これについて、具体的なこと。


学生相談室を「なんでもあり。しかし、なんでもなし。」みたいな、仏教的な場として成立させて、学校のなかで、ある種の治外法権がある場につくりかえたい。

治外法権というのは、つまり、学校というのは、どうしても「鋳型にはめる」という原理によってうごいているので、その原理がおよばない、「差別と平等がいりまじる矛盾の海を自由におよぐ」という仏教的原理をもった場を確立するということである。

仏教的ということについて。学生相談室的な場というのは、つまり、カウンセリングの場だが、河合隼雄が、井筒俊彦の『意識の形而上学―「大乗起信論」の哲学』をテキストにすべきだといっているように、親和的なので、「なんでもあり。しかし、なんでもなし。」というコンセプトは、まずまちがいないだろうとおもう。

それから、大学の学生相談室の先生から、きいたことで、おもしろいのは、「突然、相談室というと、逆に、拒否感を抱かれる可能性もあります。」という感覚が、一般的にはあるということである。情報の時代だとかいわれる一方で、いまだに、こころや精神といわれるものにはネガティブなイメージがつきまとっているようである。ただ、学生相談室については、このイメージは一理あって、施設のすみっこにあるし、なんか室内も陰気だし、もっと改善する余地はあるとおもう。奥に、これまでどおり、箱庭療法の部屋があるような、多少陰気ともおもえるイメージの部屋をもって、前衛にカフェ的なライトな場をつくるべきだとおもうのである。

これについては、実質的な改善にくわえ、イメージアップ宣伝とか、啓蒙という方法をとる必要があるとおもわれる。

ここで、ナチスヒトラーゲッベルスがでてきて、現代人がかかえる闇とのたたかいがでてくるので、しっかり実存的にむきあわねばならないとおもうのである。事実をねじまげて、宣伝してしまっては、ダメなのである。経済性にはしることなかれ。

そもそも、なんで学校にこのような場が必要だと、ぼくがおもうのかというと、ファシズムとかに、なんとなく同調してしまうのって、ダメだよねっておもうからで、「ちがうとおもうことは、ちがう」と、いってみることができる世のなかの方が健全だとおもうからである。

もちょっと、全体的に具体的にしていきたい。