運動するという行為・表現と心身の関係性

生活のなかに、はしることをとりいれるはじめて、1年とすこしがたった。

自分のなかで、はしることとのむきあいかたが、すこしずつかわっていったが、劇的にかわったのは、まちがいなく、今年8月13日だ。早朝7時から、友人ふたりといっしょに、公園で、はしった経験がきっかけで、主体的に、はしるという行為をするようになった。それまでは、もっと衝動的だった。

はじめのころは3kmを30分ちょっとかけて、はしることで精一杯だったが、いまでは、最長10kmを50分台で、はしれるようにまで、なった。

この経験から、心身の関係性をかんがえたい。

まず、ゆたかな思想をもつには、心身のつよさが均衡している必要があるようにおもえる。こころだけがつよくて、身体がついてこなければ、こころはしだいに病んでくる。また、身体だけがつよくて、こころが貧弱であれば、おそらく過激な思想に、たぶらかされるはずだ。

心身の関係性について、このようにかんがえているが、ぼくは、これまで、ほとんど身体をつよくすることはなかったので、もうすこし、きたえてみようと、最近おもいはじめている。

それで、1年ほど継続したのは、「週3回ほど、1回5km~のジョギング」だけだが、この一週間から、すこしやることをふやしている。ふやしたこととは、週3回ほど(※気がむいたとき)、「スクワット10回を3セット」、「かかとの上下運動15回を3セット」、「腕立て伏せ10回を1セット」だ。

これくらいでも、おそらく身体は多少はつよくなるだろうから、これによって、こころがどのように変化するのか、しっかり言語化して、ながめていきたい。なんとなくおもうが、すでに結果はすこしでているはずで、仏教的思考(霊性的直覚)をすこしできた感じがあるのは、身体のつよさのためだとおもっている。1年前には、コントロールできなかったことが、できているのだから。

それから、最後に、ぼくの心身のありようについて、かいておきたい。

どうも、ぼくは、体制側だったり、大勢への抵抗の表現として、自分の身体のありかたを選択するというこころのうごきがあるようにおもえる。

小中高時代は、すべて、体育の授業がだいっきらいだったが、それはつまり、「体制側、大勢のいいなりになるもんか」という抵抗のあらわれだったのだとおもう。カリキュラムみたいなとりきめによって、「ひとつの"ただしい"方向」に無理やり、自分の身体をむかわされて、いじくりまわされることへの批判的態度として、「運動しない」という態度をきめこんでいたのだ。

ぼくの「運動ぎらい」は筋金入りのものではなく、あることに対する、単なる抵抗のいち表現だったのだ。

そろそろ、なにもことばがでてこなくなってきたので、以上のようなことをなんとなくわかった気になったところで、おわろうとおもう。

それにしても、もっとわかいときに、「抵抗だ!」みたいな感じで、運動しなかったことは、たいそうもったいないことだったと、おもう。ほんとうに、運動してこなかったから、基礎体力が全然ないんだ!回復力が、全然ないんだ!