社会性がないとおもいこんでいて、こまっているぼくの人間関係構築方法

みんなが、どのようにして、社会に参加して、他者と関係をきずいているのか、やっぱりよくわからない。

11/1~11/4まで、4日間連続で、ひととあって、お酒をのんで、ぼくはたくさんしゃべり、相手もまたたくさんしゃべり、関係をきずいた。これが客観的な事実。

しかし、ぼくの主観的には、そもそも、ここにほんとうに関係があったのかどうか、いまいちピンとこない。

みんなは、どんな感じなのだろう。

これについて、なんとなく、こうではないか?と、おもうことは、いちおうある。

おおくのひとは、絶対音感的にひととの関係のなかをいきているようにおもうが、ぼくの主観の場合は、相対音感的な感じがする。

そのようにおもうから、いまさら、絶対音感的に、バシッと、相手との距離感をつかむことはできないだろうとおもい、関係のかずをおおくして、比較対象をふやすために、とにかく、ひとにおおくあうという方法をとろうとしている。

こんな方法で、社会に参加しようとこころみているから、ふと気をぬいたとき、グッタリとつかれて、ひとにあうことが億劫になるのだろうと、おもえてきた。

しかし、あまり悲観する必要もないように、最近はおもえる。鈴木大拙のいう霊性的直覚を体得することで、これは万事解決するだろうと、だいたいのことはみえてきている。この霊性的直覚は、人間の宗教性にかかわることであり、もともと人間には、そなわっていることなので、いまはそれがねむっているだけで、いずれよびおこすことができることなのだ。

霊性的直覚を再獲得し、ものごとを観ずることができるようになれば、いまのように、つねに神経をすりへらして、相対的な距離感をはかりながら、いきていくことは不要になるはずだ。

30歳になるまでに、けりをつけることができそうにおもうので、あとすこし、泥臭く、じたばたしていこうとおもう。