なにもかもを、いつでも手放すことができて、なにもかもを、いつでも手にすることができる状態がベストであるようにおもう。ダルビッシュ選手のコントロール改善についてのYouTubeから着想をえる。

なにかをやってみようと意識しはじめたら、くるってきたので、やっぱり、なにかをやるのは、よそうとおもう。なにもやらない。つとめている大学で、おもしろい食事の場をつくるなんてことは、やめだ。意識して、そんなことをやるのはやめだ。

基本的にはいまの仕事をやめようって、覚悟して、きめたときから、うまくなにかがまわりはじめた感じがあった。やってみたいことをはじめてみようと、士気があがった感じがあった。だけど、それをやろうと意識して、かたちになるように、努力して、はたらきかけるようになると、うまくまわらなくなってきた。

しがみつきたい仕事を手放して、一瞬うまくいきはじめたが、すぐに、やってみたいことに執着しはじめて、くるいはじめたようにおもう。

「ひとつのことに、よりかかる」というようなありかたは、ぼくにとっては、あんまりよくない気がしてきた。やじろべえみたいに、みぎに、ひだりに、いったりきたりできるようなありかたが、ぼくには、のぞましい。

これに関して、ダルビッシュ選手が、興味深いことをいっていたので、そこから気づくことがあった。

コントロールを劇的に改善させた方法。他スポーツにも応用できるかも

ダルビッシュ選手は、今シーズン後半から、コントロールが劇的に改善された。その方法をこのYouTubeで、かたっている。ピッチングフォームをふたつ、もったことで、改善されたという。理由は、たしかなものは、まだわからないみたいで、なんか、すごく感覚的なことをかたっているので、要約しにくい。素人目で、勝手に想像すると、ひとつのフォームでは、フォームを安定させるために、試行錯誤するなかで、ひとつ変更したら、べつのなにかがくるいだす、みたいに、意識しすぎて闇のなかをさまようことになってしまって、再現性がひくくなるから、あえて、まったくべつのフォームをふたつもって、それらをいったりきたりすることで、ひとつのフォームを過度に意識してしまうことをふせげるようになったのではないかしら。

まあ、ダルビッシュ選手のピッチングの感覚は、参考になっただけなので、うまくいえなくてもいいや。

とにかく、なにもかもを、いつでも手放すことができて、なにもかもを、いつでも手にすることができる状態がベストであるようにおもう。ひとつのものにしがみつくことは、盲目的になるし、まよいの森にもぐりこんでしまう原因のような気がする。

鈴木大拙の『仏教の大意』という本をよみながら、いろいろかんがえているけれど、そこでは「仏教が口を極めて強調するのは、差別と平等という矛盾した概念の自己同一性または円融無碍性であります。(p21)」とかかれている。また、仏教は、ふたつのことは、二にして、一である、などともいう。

「ちがうこと」と「おなじこと」の自己同一性。
つまり、「手放すこと」と「手にすること」の自己同一性。

ダルビッシュ選手のふたつのピッチングフォームは、ひとつのピッチングフォームなんだと理解すると、いかにも仏教的のような気もする。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)