どっちにしたって、人間はかんがえずにはいられないのだから、「なんにも、かんがえない」ということを意識することで、こころは自由になるとおもった。

かんがえることをやめてから、10日ほどが、すぎた。

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なにかをかんがえはじめていることに、気がついた瞬間、そっと、それを手放す。これをくりかえしている。

「なんにも、かんがえないこと」、どうやら、これが自分にとって、最良のあり方なのかもしれないと、おもいはじめている。

ぼくは、そもそも、いろんなことをかんがえてしまうたちの人間なので、ひとからは、よく、「かんがえすぎない方がよい」とアドバイスされる。あるひとからは、「シンプル&ポジティブ」というナイスなことばをもらった。その姿勢を軸にしてみるのがよいと意識して、なにかをかんがえこんでしまったときには、複雑にかんがえないように、つとめた。しかし、「かんがえすぎない」や「シンプル&ポジティブ」といっても、かんがえていることにはちがいなく、したがって、しらずしらずのうちに、かんがえることの渦にのみこまれてしまう。そして、気がつけば、ことばの海の奥ふかく、闇の世界にしずみこんでしまっていることが、しばしばある。気がついたときには、すでに、溺死一歩手まえであり、なんとか浮上して、息をつぐことができているような感じで、いきている。ただ、浮上してこれたときには、地上の空気はなんともいえず、さわやかであり、ここちよい。ひさしぶりに、地上の空気をすった、その瞬間、なにをかんがえても、もはやこわくない気になっていて、未来は希望がみちているような気分でみたされている。それで、調子にのって、さわがしくうごきまわって、いろいろかんがえはじめて、結局、ふたたび、かんがえることの渦にのみこまれていく。ここ数年は、ずっと、これのくりかえしだ。なんとも、アップダウンのはげしいジェットコースターのようだ。

これでは、心身がもたないことに、気がついた。あり方として、限界だとおもう。これ以上、かんがえていても、なにもうまれないとおもう。

そのようにおもったために、いっそのこと、かんがえることをすべて、やめてみようとおもったのだ。まだ、10日ほどでしかないが、うえのような、あぶなっかしさが、なくなったようにおもう。

かんがえることをやめる、かんがえることを手放すというあり方を意識する。かんがえはじめたときに、そっと、それを手放す。かんがえていないときに、かんがえていることをのがさない。しかし、かんがえていることに気がついた瞬間に、そのかんがえていることを手放す。このあり方は、ことばの海の奥ふかくの闇にしずむこともなく、だから、ひさしぶりの地上の空気のおいしさを味わうこともない。海面にプカプカとうかんで、気ままに、ただよい、のんびり、ゆるりと、ふかく呼吸をつづけるようなあり方。中心のちかくを小刻みに、何度も、いったりきたりしているようなあり方。理想のかたちは、融通無碍だとおもうので、このように言語化していることが、すでに、まちがっているようにもおもう。

このような「なんにも、かんがえない」ということを意識するようになって、重大なことに気がついた。かんがえないように、どれだけつとめていても、やっぱり、人間はかんがえている。どうやら、人間は、かんがえるということを容易には、すてることができないようだ。いきているかぎり、どうしたって、かんがえてしまうのだ。

かんがえること、言語化することは、簡単には手放せない。仕事や生活をいとなむには、かならず、だれかとのコミュニケーションが必要だ。このとき、どういうことばや身ぶりで、相手に意思をしめそうかと、かんがえる。人間として、"ふつう"に、あるいは、自然に、いきていくということは、かんがえることから、のがれることはできないということなのだ。たとえば、仕事のメールは否応なくだが、私的なあそびのLINEだって、返信するには、かんがえたり、言語化せざるをえない。しかし、それが社会なのかもしれないということも、気がついた。

かんがえていなくても、かんがえているのが、人間なのだ。どっちにしたって、かんがえずにはいられないのが人間なのだったら、むやみにかんがえなくたっていいだろう。