性欲と親鸞。

性欲って、つかみどころがないなあ。

そういうことをおもうことが、周期的にやつてくる。

性欲は、コントロールできない。性欲がたかまり、ムラムラしてきたとき、一時的には、自慰によって、はきだすことはできる。しかし、それは根本的な解決にならない。すぐにまた、性欲のちからが、よみがえってくる。

なんか、このような性欲がたかまる周期にはいると、心身のすべてが、性欲に支配されているような感じがする。なにをかんがえるにも、エロいことが、あたまの中心をしめる。妄想が、次第に肥大化し、現実と妄想のさかいがわからなくなるような、こわさにおそわれる。たとえば、痴漢をしたひとは、「相手の女性は、よろこんでいるとおもっていた」と供述することがあるようだが、そういう認知のゆがみは、性欲が心身を支配していることによって、ひきおこされているような気がする。

これは他人事とは、わりきれない。もしかしたら、自分だって、パートナーに対して、ほんとうは嫌だとおもっていることをよろこんでいるのだとおもいちがいをして、愛撫していることだって、ありえるのだ(※パートナーなんて、ながらくいない)。他者のこころのうちなんて、正確には、はかりしえないのだから、十分に、ありえるとおもう。

それで、ふとおもうのは、肉食妻帯をみとめた親鸞はやっぱりえらい、ということだ。親鸞のそれを「欲に対して理性であらがわない立場」と定義してみたい。

異常性欲だとか、いわれてしまえば、それまでだか、性欲がたかまったとき、理性でそれを制御しようと努力しているところに、ちょっとした快感の種がある気がする。「街ゆくひとを強引にでも…」みたいな欲求をおさえるところに、快感があるのではないか。そういう妄想と現実とのさかいに、快感の発生源があるのではないか。ほんとうに、それをしたところに快感はなくて。

「やってはいけない」と、理性で抑制するところから、すこし、逸脱するところに、快感のひとつの根がある気がする。

しかし、それは、やっぱり罪なことなのだ。その逸脱は、行為にむすびつくおそれが、たしかにある。それは、社会的に、ダメなことなのだ。

このような罪の危険から、解放されるには、肉食妻帯をみとめるしかないのかもしれないとおもう。つまり、「人間はどんな肉もくらうし、みさかいなく、ひとをおかすのだ」ということをみとめ、欲のいっさいを理性の制御から手放すのだ。

「人間は肉をくらうし、ひとをおかす」という立場にたてば、「やってはいけないと抑制する」というところからうまれる快感はない。この快感がないところに、性欲からの自由があるような気がする。性欲に支配されない、視界のひろがり。それは、人間が性的な存在であると、みとめることからはじまるような気がする。

親鸞がもった感覚とは、このようなものではないかと、夢想している。

歎異抄 (光文社古典新訳文庫)

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仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

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