西田幾多郎がどんな仕事をやったのか、ぼくはほとんど、なんにもしらない。西田の文章を何度かよんでみたが、挫折してばかりだ。
そんなぼくであるが、西田の友人であった鈴木大拙は、何冊かよんでいて、非常にわかりやすく感じている。大拙のおかげで、仏教のこと、宗教のことをわかった気になっているほどだ。ここでの主題とは、関係のないことだが、ぼくは鈴木大拙のたすけをかりて、霊性的にものをみるというありかたを身につけつつあることを実感している。知性でもなく、感性でもなく、霊性的に、ものごとをとらえる。これがつまり、ひらめきや発想の根源だとおもう。
西田幾多郎のよみにくさと鈴木大拙のわかりやすさのちがいは、大拙の文章が西田のそれにくらべ、やわらかいことにあるとおもう。
大拙は、日本的仏教を世界にひろめるために、英語をつかって、よく文章をかいた。大拙が英文でかいたものをべつの訳者が日本語に翻訳したものもある。大拙は、日本的仏教のことをなんにもしらない、べつの世界のひとむけに、べつの言語で表現するという努力をしていた。つまり、なんにもわからないひとが、わかることができるような、やさしいことばで、言語化していたのだろう。それが、日本語にも、あらわれているのではないだろうか。ぼくは英語をよめないので、実際のところは、よくわからないし、西田幾多郎も英文で、なにかをかいていたかもしれないが。
ともかく、やさしいことばで表現することの意義は、梅棹忠夫がとくところであり、ぼくはそれをとてもたいせつなことだと、おもっている。そういう立場からみる、鈴木大拙のおもしろさのひとつは、仏教用語をほとんどしらなくても、仏教の大意について、よくわかるところだとおもう。これは、納得の構造が、著者だけのものになっていないとでも、いえばよいだろうか。
たんなる、このみの問題なのか、それとも、うえにかいたような、表現のやわらかさや納得の構造の問題があるのか。ぼくが、鈴木大拙の『日本的霊性』をよめて、西田幾多郎の『善の研究』をよめないわけが、すこし気になった。
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