友だちづくりが下手くそ

十代のころ、とにかく、友だちづくりが下手だった。中学生のときは、小学生のころの友だち関係の貯金でやりくりできたが、高校生になって、あたらしい学校に進学すると、もはや関係構築のための技術も思考も精神も、なにもかも、うしなわれていた。大学生になってからは、意識的に友だちづくりをがんばったので、ちょっとは改善されたが、やっぱり違和感は多少あった。

当時のぼくは、どんなだっただろう。

大学1回生のときの英語の授業では、自分の座席配置が、日本語のできない留学生のグループのなかにあった。ぼくは、このことに不満をもち、苦痛を感じた。「これでは日本人の友だちがつくりにくいではないか」と。

いまなら、これは自分がアホやったとおもうが、当時の自分にとっては、切実な問題だったのだ。自分から、他者に声をかけて、はたらきかけることで、人間関係は構築されていくものだが、集団は自然発生するものだとおもっていたから、しかたがない。

とはいうものの、やっぱり集団の発生には、自然発生的な側面もあるとおもう。つまり、集団とは、「個々人の意識の壁」と「自然のながれ」によって、うまれるのだろうとおもう。意識の壁とは、人間それぞれがもつ対人関係における距離感のことである。また、自然のながれとは、人間が無意識的に、他者の意識の壁を感じとることだというと、ちかいかもしれない。

ところで、「日本人の」と限定しているという、もうひとつアホなところがあるが、友だちがひとりもいない人間が、母語で、自由にかたりあえるひとが、どうしてもほしいとおもうのは、ある種自然なこととおもえるし、大学生とはいえ十代の年若であり、それをいうのは酷かもしれないと、当時の自分をおおめにみてやろうとおもう。ひらきなおるわけではないが、この自文化中心主義をみとめるところから出発することが、民族学・人類学的には、重要なことだと、ぼくは我流でまなんできたのだ。