納得の構造

納得することって、つまり、「ことばをすてることなのではないか?」と、ふとおもった。ふとおもった瞬間、これはたしかなことだと、そんな気がしてきたので、あえて、ことばにしてみよう。

納得は、ことばによる理解ではうまれない。その理由として、「ことばは、十のことを十すべて、いいあらわすことができない」ということが、もっともおおきいことだとおもう。納得とは、十あることのすべてをわかって、はじめてえられるものだろう。

くりかえすが、ことばでは、十あることのすべてをいいあらわすことができない。だから、納得は、"あること"について、「ことばをすてたり、ことばがないところで、"わかった"」と体感するところに、うまれるといえるとおもうのだ。

ところで、「ことばをすてる」とか、「ことばがない」とか、それはどういうことかというと、それは文字どおりのことでもあるし、また、「ことばにしてはいるが、字面的には、その意味がよく理解しにくい」というほどのことでもある。「知性的にみると、明晰さにかけ、あいまいさを多分にのこしていることばであっても、それでよいとすること」とでもいうと、多少わかりやすいだろうか。

それでは、「ことばをすてることは、ゼロなので、なんにもわからないではないか?」といわれることが、かんがえられるが、これにはどうこたえればよいかわからない。たしかに、ことばをすてたところにあるのは、ゼロのような気もするが、納得はそんな分別くさいところから、えられるものではないとおもうのだ。

十あることについて、九.九九九…と極限まで、かんがえぬいたさきに、「もうダメだー!」と、ことばをすてたところに、「あっ」と、ひらめく納得があるのだ。納得の構造というには、まことにたよりないが、納得とはこのようにおきるような気がする。

以上、鈴木大拙『仏教の大意』(角川ソフィア文庫)p91~にかかれている、唐代の坊さん、賢首大師法蔵の金獅子のたとえをよみながら、おもいついたこと。

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

仏教の大意 (角川ソフィア文庫)