食事の場で、かたりあう~「自由にまなび、自由に発想し、なにかをはじめる」きっかけ~

ご飯をたべながら、自由に、かたりあうという場をもちたい。

場のルールとしては、つぎのものをゆるやかに、もっておきたい。


○知識だけをひけらかすようなことはしない。
自分という存在からきりはなされた知識を蓄音機から、たれながすようなことはしない。


○自分のことをかたる場だが、できるかぎり、ひとりよがりにならないように注意する。
「かたりあう」ことは、「かたり」、「あう」と分解できる。「かたり」とは、自分に根ざすことを表現することであり、「あう」とは、ひろく他者と調和することである。「かたる」ことは自己中心的であり、「あう」ことは非自己中心的であるが、これは対立するものではない。どっちも並列的だし、どっちかがつよいし、どっちもない、こんな感じである。

とにかく、自分というものを知識そのほか、外界の現象ときりはなさずに、かたり、シェアする場である。

勉強会などとしてしまうと、テーマ性がつよくなってしまい、硬直化してしまいそうなので、やっぱり飯をくう場がよいとおもう。もちろん、「自由に、かたりあう場」にも、毎回、ある程度、ゆるやかにテーマ設定はするけれど、お酒でものんで、よっぱらってきたとき、「テーマはあるけど、ない」というような幅があると、ちょうどよい。そういうところに、自由がある気がする。ここに、自由に発想できる場が誕生する気がする。

とにかく、これをもちたいから、ちいさくはじめてはいる。しかし、いまのところ、このほんとうのテーマは、「ご飯をたべたり、お酒をのんだりして、日ごろのストレスからはなれて、息をぬこう」という名目の裏にかくれている気がする。

とりあえず、いまは、職場の教職員をちょっとずつ食事にさそったり、したしき友人とご飯をたべるときに、こっそりと、このテーマをためしに、だしてみたりしているところである。

「こういうものをやりたいんです。どうぞ、ご飯にいきましょう」といってしまうと、硬直化するというか、それをいってしまった瞬間に、自分が興ざめしそうなので、なかなかむずかしい。

結果的に、自然に、できあがっていたというかたちが、ぼくとしては、のぞましい気がする。ということは、やっぱり、「ご飯をたべる」場であるだけで、よいのかもしれない。そういえば、梅棹忠夫らも、「貝くう会」などという食事の場から、未来の研究がはじまり、大阪万博につなげたのであった。
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