胡蝶の夢日記 行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題や民族学に興味あり。「自分のこと」を言語で表現することでみえてくる自己実現について、かんがえながら、ブログをかいています。社会性って、なんだろう?どうしたら、社会に参加できるのだろう。

東洋ショー劇場に、ストリップをみにいった。演者のひとり、中条彩乃さんに、こころうたれた。

2020年1月2日、わが友たち男女四人で、天満にある「東洋ショー劇場」へいった。ストリップをみるのは、これで3回目だ。

こういう世界は、やっぱりずっとのこってほしい。世のなかでは、東京オリンピックだ、大阪万博だといって、まちの浄化作戦がはじまっているようだが、この世界は、のこさねばならないとおもう(浄化の対象に、実際になっているのかは、しらない。)。

なにをもって、浄化されなければならない悪だと、きめつけているのかを、冷静に、うたがっていきたい。

この日は、目のまえに、最低な客がひとりいた。ステージのはしで写真撮影をしているとき、そのひとは、椅子に、あさく腰かけて、ねころんだような姿勢になり、足をステージにのせていた。それをみて、踊子さんのひとりは、「そこは、ぼくたちの仕事場だし、礼儀ただしくしてくださいねー」と、やんわりと注意していたが、内心腹立たしかっただろうとおもう。「くそやろう、でていきやがれ!」といって、場をしらけさせなかったところに、自分の仕事への矜持があることを感じた。かっこよい。そのかっこいい踊子さんは、中条彩乃さんという。

がんばっているひとを無関係で、当事者でない人間が、無意味に、けなすことをみとめる理屈なんてないとおもう。

中条彩乃さんの表現は、つややかでエロくて、さらに、ちからづよくてかっこよかった。そして、その人柄にふれることができたこともあり、ファンになった。この日のミリタリー風の衣装などは、個性とマッチしているように感じられたし(衣装といっても、最後はぬぐのだが。)、のりやすいダンスミュージックっぽい音楽をつかっていて、参加型っぽくて、たのしかった。いろいろな工夫をこらしていて、感動するポイントがたくさんあった。

このような世界のよさについて、もうひとつ。

かえりに、劇場のトイレで、用をたしながら、友人のひとりと「あれがよかった、これがよかった。中条さんもよかったけど、四人目のひとも、よかった。」と、ペチャクチャとしゃべっていた。すると、奥の便器で用をたしていたオッサンがひとり、チラチラとこちらをみてくる。なんや?とおもったので、「いいですね、いつもきはんるですか?」と、ぼくは、はなしかけた。そのオッサンは、「いいでしょ!四人目のあの子のファンでして。」と、すごくうれしそうに、こたえる。「四人目のひとは、なんて名前なんですか?あの表情がよかったです。カラッとあかるい感じの!この劇場で、よくやってはるんですか?」と、さらにかえすと、オッサンは「伊東紅蘭ちゃんっていいます。ええでしょ、笑顔がいい!基本は東京でやっています。まえに一回、東京までみにいったことも、ぼくはあるんですけど、あの笑顔に、いっつも元気をもらってます。」と、やっぱりうれしそうにいう。

なにがいいたいかって、いいたいことは山のようにあって、ありすぎるがゆえに、うまくいえない。しかし、ひとついうと、ここは、"人間がいきている"のだ。人間がいきているところは、のこさにゃならん。

文化が変容していくことは、べつによいことだとおもうし、だれかが直接的に傷つけられたり、現代の社会的なながれにあまりにもそぐわないこと(たとえば、むかしは、「まな板ショー」なるものがおこなわれていたという。)はやめるのがよいとおもう。しかし、その場の本質を理解しようとすることなしに、先入観とか、おもいこみとかで、禁止することは、おおきなまちがいだとおもうのだ。

オチも結論もない。だから、どうやって、この雑文をおわればよいのかわからない。

"ふつう"というのは、しっかりと、うたがってかかり、自分の目でたしかめなければならないとおもう。「わたしの"ふつう"」もあるし、「あなたの"ふつう"」もあるのだ。自由になるには、いろいろなふつうを解体して、再構築していく作業を何度も何度もくりかえしていくことが必要だとおもう。そんなことろで、この雑文をおえておこう。

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写真は、踊子さんととったもの。肖像権だ、なんだとあるとおもうし、自分もうつっていて、さすがに多少の羞恥心もあるので、モザイクをかけておこう。われをわすれ、、はしないが、うかれて写真を二枚もとるくらいたのしめる、体験の価値のたかい表現の場だった。においだけでも、つたわるだろうか。