いきづらさの穴をうめるために、ぼくはこんな雑文をかいているのだろうとおもう。

自分自身が、社会のどこにいて、どこにむかっているのか、いまもむかしも、全然わからない。ぼく以外のおおくのひとは、社会という秩序のなかにいて、その秩序にしたがって、あゆみをつづけているようにみえるけれど、実際のところは、どうなのだろう。ぼくは、その秩序のことがよくわからない。だから、そのよくわからないものに、したがっていくことが、とてもいきづらい。

鈴木大拙は、仏教の、宗教の、根本は無心なのだということを指摘している。その無心について、無分別の分別などという表現をつかったりして、あの手この手、何度もくりかえして、説明している。

鈴木大拙をうけて、ぼくなりの理解をふかめてみると、「信仰とは、無秩序のなかにあって、秩序だっていること」だといえるとおもう。社会は、二元的に、対立の論理で、なりたっているが、信仰の世界は、そうではない。無秩序が秩序だっているという感じが、どうやら、ぼくは、ここちがよい。ここちがよいってことは、つまり、ぼくは信仰的な態度で、いきていく人間なのだということだろう。ここに、ぼくの社会参加の基礎は、ついにかたまった、とおもえるのである。

それで、なぜ、ぼくは、こうして、だれかにむけているわけでもなく、だれかがこのんでよむわけでもない雑文をかきつづけてきたのだろうかと、ふとおもう。はじめは「自分を社会化するためだ」とおもってやっていた。しかし、それだけでは、ちょっとおさまらない気もしてきた。なぜ、ぼくは、こんなふうに、内的世界を他者にさらす努力をして、恥をさらしつづけるのだろう。

主題は、ぼくの社会参加のありかたについてである。

もし社会が秩序の世界であるとするならば、ぼくが雑文をかくことで表現しようと努力していることは反社会のことだろうとおもう。ぼくは、さきにかいたとおり、無秩序の秩序を志向するのである。

このことについて、うまくいえないが、ぼくは、「"ふつう"というおもいこみを破壊して、"ふつうなんてない"世界が、あたりまえになれば、もっといきやすくて、平和な世のなかになるのではないか」と、多少、漠然とおもっていたりする。ぼくの破壊したいという欲求は、おもいこみにむけられている。自分自身がおもいこんでいることに限らず、だれかのぼくに対してのおもいこみ、だれか自身にとってのおもいこみなどにもむけられている。

これはいったい、自分自身に社会性をもたせるためのとりくみなのだろうか。

むかしは、司馬遼太郎に、あこがれたこともあったが、いまやそのような大人物になりたいという自分への期待は、もうほとんどないようにおもう。孫正義のように、『竜馬がゆく』をよんで、一旗あげることを夢みたころもあった。しかし、そんな簡単には、人生はすすんでいかないことをしった。…あるいは、いまおもうと、このようなあこがれは、ペシミスティックな自分の性格に社会性をもたせて安定させるための本能的な調整だったのかもしれない。

雑文をかいたり、だれかと対話したり、ぼくが割合、一生懸命におこなっているとりくみは、いったいなんなのだろう。

「"ふつう"という型にはまってしまっている自分と他者のおもいこみ」をときほぐしていくことにつきるのかもしれない。

おもいこみによる秩序を破壊し、無秩序の秩序をつくっていくことを、わかりやすく、そして、おもしろく表現できるように、努力することが、ぼくの社会参加なのかもしれないとおもう。

無心ということ (角川ソフィア文庫)

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仏教の大意 (角川ソフィア文庫)

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孫の二乗の法則 孫正義の成功哲学 (PHP文庫)

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