ゆとり世代、さとり世代に分類されてしまう人が、世代が違う人を理解するためには、「相手は自分より、しらないことがおおい」という意識をもつとよいと納得できた話。

おもいこみでも、妄想でもなく、今日は、司馬遼太郎山村雄一といっしょに、お酒をのんでいる。頭のなかが、10歳代のころのように、やわらかくなっていることを感じるほど、ここちのよい、お酒である。

友だちとか、職場の同僚とか、串かつ屋さんやラーメン屋さんの店主とかといっしょに、お酒をのむのもたのしいが、ひとりで本をよみながら、お酒をのむのも、たのしい。

司馬と山村との対談をまとめた『人間について』をよみながら、お酒をのんでいるのであるが、これは一読すべきである。読み手の空想力をためされるだろう。いまをいきるぼくとしては、とおい過去の人間たちの対談である。しかし、空想についていえば、ここには過去も未来もないといえそうである。

ところで、過去の人間を理解することについて、ちょっとした、気づきがあった。

「あとにうまれたぼくらは、さきにうまれたひとびとの思想だったり、科学技術だったりをふまえているわけだから、親や先輩などのことを理解できるんや。逆にいうと、親や先輩らは、未来というアドバンテージがないから、ぼくらのことを理解できないんや。」

なかよくしている哲学をやっている先輩が、ぼくによくいうことである。かれからすると、すこしニュアンスがちがうかもしれないが、ぼくはこううけとっているので、ご了承していただくしかない。

ぼくは、いつも、これには納得できない。

「未来をいきるぼくのいいたいことは、たとえば、ぼくより過去をいきた司馬遼太郎梅棹忠夫が、いいつくしているのだから、親や先輩らは、アホなだけか、努力不足なのである。」

こんな風に、いつも腹がたっていたが、今日、というか、いまのいま、哲学をやっている先輩のいうところをすこしわかったような感触がある。

もし、ぼくが50年前をいきた人間のことを理解しようとしたら、かれらは、「いまよりも、もっと、わからへんのや」ということを前提にして、想像をはたらかせなければならないかもしれないことに、気がついた。

人間について』のなかで、司馬と山村は、つぎのように、ことばをかわしている。(p64,65)

山村 人間の脳は中枢だから、いろんな情報が最終的に集まり、それを適当にさばいて、つなぐべき情報はつなぎ、伝達すべきものは伝達する、というように、仕分けをして仕事していると思うんです。どんなコンピューターよりもすぐれていると言われるぐらいです。しかし、伝達し過ぎると、芸術とか、いろんなことにはあまりつながらないようですね。

司馬 つながらないですな。情報量は多過ぎないほうがいい。

情報は、あまりもっていては、いかんこともあるということである。これは何重にも意味があるようにおもう。

たとえば、ひとつ、ぼくが司馬遼太郎山村雄一という過去の人間を理解するためには、現代の科学技術の知識をもって、かれらの対談に参加しては、本質はみえてこないということ。もうひとつは、芸術などに関することは、情報から、ある程度、距離をとっておく必要があるという指摘についてである。さらに、もうひとつは、情報があるという制約があまりつよすぎては、そもそも想像をはたらかせにくいとおもえること。

司馬と山村との対談をかんがえるほど、ぼくには余裕もなければ、ちからもない。

かんがえたいのは、親や先輩など、卑近な過去の人間もふくめ、先人を理解するためには、「かれらの身になってみる」ということが必要であるが、そのためには、空想をはたらかせてみる余地がのこっている必要があるようにおもったことである。

極端にいうと、いま、自分がもっている情報をすててしまわなければ、過去にいきた人間のことを理解することなど、できないのかもしれない。「アホばっかりや」とか、「勉強不足や」とか、そんな風におもっていた自分が、過去の人間を理解することについての理解が不足していたのかもしれない。

結論はない。

いいたかったのは、うまいお酒をのんでいるということである。

人間について―対談 (中公文庫)

人間について―対談 (中公文庫)