胡蝶の夢日記 行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題や民族学に興味あり。「自分のこと」を言語で表現することでみえてくる自己実現について、かんがえながら、ブログをかいています。社会性って、なんだろう?どうしたら、社会に参加できるのだろう。

YouTubeって、「雑談」や「語り」と親和的なんだから、ファクトとフェイクをあいまいにしか区別しないで発信するのって、本質的に当然のことなので、おこるべくしておこったんじゃないの?オリエンタルラジオの中田敦彦さんのYouTube大学について、おもったこと。

最近、Twitterで、オリラジのあっちゃんのYouTubeが、「フェイクニュースデマゴギーをたれながしている」と批判されまくっているのをよくみかけます。

www.google.com

このことから、表題のことをちょっとかんがえてみたいとおもいました。

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目次

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情報がフェイクorファクトであるかは、個人で判断するのは、とてもむずかしい。

フェイクニュースデマゴギーについて、ぼくは、まったく肯定しないでいようと努力しています。自分がフェイクニュースを発信するひとになったり、Twitterリツイートなどで加担することも、できるかぎりしないように努力しています。


なぜ、「できるかぎり」とか、「努力」などと、あいまいな表現をつかって、「しません」といいきらないのか。

それは、単純にいいきることができないからです。ナチスの宣伝戦略などを勉強すると、このことがわかるとおもいます。

第二次世界対戦当時、知識階級に属していた学者なども、政府のデマゴギーをうっかり信じていたひともいるとききます。それくらいファクトというのは、実は判断するのが、むずかしいんだとおもいます。そこをついたのがナチスであり、ゲッベルスの宣伝戦略なんだとおもいます。

情報を掌握され、たくみな宣伝によって、大衆は、いともたやすく煽動されてしまい、フェイクをファクトと信じてしまうことは、歴史が証明しているんだとおもいます。

オリラジのあっちゃんが批判されているのは、ウソを平気で発信しているということに集中しているようですが、ほかには、「発言に責任をもて」とあっちゃん自身がいっていたにもかかわらず、それを放棄している無責任さが批判されています。

ぼくはビジネスには道義や事実にもとづいたルールがあるべきだとおもいますが、金もうけ主義、拝金主義にはしると、平然とウソをついてしまうのが人間なのかなあ、などと、ぼんやりとおもいはするんですが、それは今回の主題ではありませんので、さっさと主題にいきます。

 

YouTubeと「雑談や語り」との親和性

YouTubeは、「雑談」や「語り」との親和性がたかいように、ぼくはおもっています。

それでは、今回の主題です。

そのこころは、「視聴者は、ラジオのように、声だけをきいていても、YouTube体験が成立するし、また、気がむけば、映像をみて、表情や身ぶりなどをたのしむこともできる。そして、発信者にメッセージをおくることもできる。つまり、視聴者側に、参加の自由がある。」ということです。

ここ数ヶ月くらいのあいだ、ダルビッシュ有さん、ホリエモンこと堀江貴文さんのYouTubeをマメにみていますが、「ざっくばらんに話をするスタイル(=雑談、語り)」にかわってから、視聴回数が爆発的にのびています。

ほかに例をあげると、最近あったホットなYouTubeニュース、misonoさんのYouTubeに、島田紳助さんが出演したことです。

島田紳助さんのことは、個人的に、むかしからファンなので、めっちゃうれしかったという感想をかきたいんですが、余談がすぎるので、やめておきます。紳助さんのトーク力、雑談力のたかさが、YouTubeに絶妙にマッチしているとおもいました。


【神回】misonoの為に!?島田紳助さんが特別に出演して下さいました…〜復帰ではありません〜前編【ヘキサゴン】


雑談や語りにフェイクorファクトの考証は必要か?

結論的には、必要なんだとおもいます。より質のたかい雑談や語りにするためには、しっかりとした事実をもっているべきです。

しかし、日常、だれかとのんびりと雑談しているときや、なにかをかたったりするときに、そこまで綿密に事実の考証しながら、はなすでしょうか?たぶん、ほとんどのひとが、そんなことまで、かんがえていないでしょう。

そもそも、雑談や語りというのは、むかしからありますが、それが「民間伝承」みたいなかたちで、ふるい土地にいけば、のこっていたりします。その民間伝承のおおくは、口述によって継承されてきたものです。その伝承を民俗学者民族学者は調査し、地誌や民族誌などとして、まとめますが、そのときになって、はじめて、ファクトとフェイクの考証をするのではないでしょうか。

雑談や語りの場にいる当事者たちは、フェイクorファクトは、あたまにはないのではないだろうかとおもうんです。

ぼくは、おばあちゃんの話をよくきいて、そだちましたが、おなじ話をよくするのですが、毎回すこしずつ、話の内容がちがうんです。好意的に想像をすると、いつもおばあちゃんは、たのしそうにはなしますので、聞き手であるぼくをたのしませようとおもって、ちょっと話を脚色したり、もっているのかもしれません。


結論

YouTubeは雑談や語りの形式に、その本質があるとおもうので、YouTubeで発信するときは、その内容が事実であるのか、創作であるのかをしっかり整理する必要があるとおもいました。うっかりしていると、その気がなくても、フェイクニュースを発信している不届きものとして、火あぶりの刑に処せられてしまいかねません。それで、ひらきなおって、屁理屈で自分を正当化してしまうと、かえって値うちをさげてしまい、信をうしなってしまうんだろうなとおもいました。