プロ奢ラレヤーさんの『嫌なこと、全部やめても生きられる』をよみながら、おもったこと。「納得できることだけやって、いきる」という、こころの道しるべ。

「すきなこと」とか、「やりたいこと」って、わかりにくい。そもそも、すきなことも、やりたいことも、あまりない。

もちろん、局面々々では、すきも、やりたいもあるけど、そういう感情のエネルギーは、ながく持続しないので、すぐに、さめる。継続していることも多少はあるけど、すきだから、やりたいから、やっている感じとは、すこしちがう気もする。日ごろ、よくかんがえていることだって、あるいは、かんがえずともよいのではないか、ともおもうこともあるので、業のようなものなのかもしれないと、すこしおもう。

あまり、すきなこととか、やりたいことさがしに精をだしすぎては、そのはてに、「自分には、すきなことも、やりたいこともないんだ。一生、このまま、なにに熱中することもなく、平凡に、いきていかなければならないんだ。このいきづらい社会で…。」などと、おちこんでしまうオチがまっている気がする。

以上のようにおもうから、「なにか、がんばってきたことは、ありますか?」とか、「やりたいことはなんですか?」みたいな、就職面接などでの定型文が、すごくダルい。

ダルいわけは、ほかにもある。

「すきとか、やりたいとか、そういう感情に根ざした熱中(がんばり)」を経験したことを、唯一、至上のものとしてみとめる文脈があることが、ダルい。ぼくは、「がんばらないでいること(あきらめること、執着をすてること)をがんばってきた」けど、それをみとめない一方通行の価値観が、すごくきらいだ。生産することをなによりも尊ぶ、工業時代の精神は、クソくらえだ。

「なんにもがんばる努力をしていないけど、いまこうして、いきています。」

これで十分だ。

なんで、こんなことをあらたまっていうのかというと、最近、ぼくは、プロ奢ラレヤーという人物に、ちょっと傾倒しはじめているからだ。彼の「嫌なこと、全部やめても生きられる」という思想にふれて、すっかり啓蒙された。とてもわかりやすい。

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これをぼくなりに解釈すると、「納得できることだけやって、いきる」といえそうだ。ここで、ようやく、いいまわしをポジティブなものに反転することができた。これぞ、あかるいペシミストをめざすものの、ただしきありかただ。

ぼくにとっては、自分が納得できないことは、全部嫌なことで、やりたくないことなのだ。だから、納得できないことは、やらないで、いきる。これが、30歳をまえにしたぼくの基本的な姿勢だ。

嫌なことだって、納得できることもある。すきなことだけど、実際に行為するとなると、納得できないこともある。

「すき・きらいではなく、納得できるか、納得できないか」ということが、こころの道しるべ。この感度をたかめていって、行為しつづけていきたい。それが、ぼくという人間の生が、社会へとひろがりをもつための、ひとつの鍵であるような気がするのだ。

嫌なこと、全部やめても生きられる

嫌なこと、全部やめても生きられる

  • 作者:プロ奢ラレヤー
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2019/12/20
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)