胡蝶の夢日記 行為と妄想をかきのこしていくところ

心身の問題や民族学に興味あり。「自分のこと」を言語で表現することでみえてくる自己実現について、かんがえながら、ブログをかいています。社会性って、なんだろう?どうしたら、社会に参加できるのだろう。

精神的な修行にむいているジョギング。身体感覚を合理的にとらえることにむいているバットの素振り。

ジョギングばかりをするのは、あきてきたので、ここ2か月くらいは、筋トレとバットの素振りも、わりとがんばっている。

最近になって、身体をおおきくつかって、バットをふりきることができるようになってきた。打ち方として、ただしいのかは、皆目わからないが、ちからがついてきた感じが、けっこうある。阪神の大山にも、ぼくのように、おおきくバットをふりきってもらいたいと、妄想して、自分がなにものかであると錯覚してしまうくらいには、学校教育のせいで運動ぎらいになった自分史のなかでは、ちからがついてきている。

バットをふるという動作は、なかなかおもしろい。落合博満など、プロ野球選手の身体感覚をきいたり、よんだりしながら、実際にバットをふっていると、おもしろい。このおもしろさを丁寧に言語化していくと、さらにおもしろいことが、おきそうだとおもっている。

ほんとうは、素振りだけでなく、ボールも、うってみたいのだけど、ちかくにバッティングセンターがないので、できずにいる。余談になるが、地元にあったバッティングセンターは、いつのまにか廃業していた。去年ひさしぶりに、いってみると、広大な駐車場になっていた。少子化と野球人口の減少が、実際にも、おきているんだと、こんなところで実感することになるとは。30年以上つづいていた場所なので、まさか廃業するとは、おいもよらなかった。ひとつ、思い出がきえてしまったわけである。

このあいだ、というか、昨日、職場の哲学者とお昼ご飯をたべながら、身体感覚の話になった。「車を運転していて、左側の幅の感覚が、どうもつかめない」という話題になり、空間把握能力のことについて、話がおよんだ。そのときに、ぼくは、ふと、バットで素振りをしていることをはなした。哲学者いわく、「バットをふることは、空間を把握する能力を向上させるために、よいかもしれない」。

どうやら、運動、身体をうごかす、などと、ひとことでいっても、多種多様なものがあるみたいだ。たとえば、ジョギングは、内向的なもので、精神の修業にむいている。宗教書や哲学書あるいは思想書をよみながら、ジョギングをすることは相性がよい。素振りは、そうではなく、また別のものだ。

やってみた感想としては、身体感覚を向上させるのは、ジョギングより、素振りが適している気がする。素振りは、あまり精神が、からんでこない。素振りは、けっこう技術的なもののようにおもえる。身体を精神ときりはなして、モノ化して、道具として、どう合理的につかえるかという方向にむかう感じがある。

素振りのことばかり、かんがえてしまって、筋トレのことに、ふれていない。

いまのところ、筋トレは、バットスイングをはやくするための手段にすぎない。だから、しんどい筋トレを、それ単体で、やる気にはなれない。ぼくにとっての筋トレとは、こんな位置づけなのだ。