はたらきたくなかったり、出世より人生のゆたかさをもとめたりするのは、ほっこりするような「やさしさ」をもとめる価値観が基準になっているからだとおもう。
すべてのリスクを回避したい。
自分がなにかを選択することで、誰かのなにかをうばうことになり傷つけてしまうことや、その選択が失敗におわることで自分が傷つくことから、のがれていたい。
このような傷をおってしまうリスクがあるのならば、自分をころして、なにも選択しないでいることをえらぶ。それが、もっともリスクを回避できる方法だとおもうから。
これが「やさしさをよわさと、わらわれて、よわさをやさしさに、すりかえてきたひと」(※氷室京介「angel」から引用、1988年リリース)の特徴ではないかとおもう。
あまり、うまくいえた気がしないけど。
あだち充の『タッチ』の上杉達也くんみたいなひとをイメージすると、わかりやすいかな?
『やさしさの精神病理』(大平健、岩波新書)によると、1960年前後うまれのひとたちから、「やさしくあること」が、価値観のおおくをしめるようになってきたらしい。そして、そのやさしさは、それ以前の社会のものとは、意味がかわっているのだという。「熱血であることをきらい、ほっこりするようなあたたかさをこのむ」というようなかたちに、やさしさが変容したと(手元に本がないため、ざっくり意訳している)。
もし、社会全体で、このようなあたたかさを基準にした価値観があるのだとしたら、「リスクをおう」ということのありかたも、現代社会は再定義していく必要があるような気がする。
ぼくもやっぱり、できるかぎり、あらゆるリスクを回避したい。リスクをとることは、「やさしくない」からだ。
ぼくが、はたらきたくない(労働したくない)のは、ころやさしさにもとづいたリスク回避の志向が関係している。
はたらくことには、社会的責任がともなう。社会的責任には、自分をふくむだれかが傷つく可能性を排除するできないというリスクがある。社会的責任をともなう仕事につくことは、リスク回避を志向する人間としては、苦痛なのだ。
ひとむかしまえの熱血主義者たちは、これを「ヘタレ」というだろう。
しかし、それはすこしちがっているとおもう。
最近になって、わかったけど、ぼくは、あそびには、割合熱心に参加することができる。
バットスイングというあそびには、手にまめができ、皮膚がめくれてしまうまで、毎日スイングすることができている。それをこまめに言語化し、課題をあぶりだして、本や映像をみて、改善方法を研究する。
だれかと、たのしく対話をするために、食事の場をセッティングする。たのしくないひとがいないか気をくばり、ときに上司も、その場にまきこむこともいとわない。調整するために、まえもって、ひととあって、その場のイメージをつくる。
これをヘタレと断罪できるだろうか。
どうやら、ぼくの感覚的には、あそびには、リスクがほとんどないから、熱心になれるという感じがあるようにおもう。
これは重要な視点だとおもう。
現代社会は、「あそび」という尺度で、価値観が形成されている時代なのだ。
世の中には、上杉のたっちゃんみたいなひとがふえている。前時代の価値観では、とらえきれない価値観をもった人間なのだ。その人間に、熱血主義的がんばりをもとめることは、まちがっているとおもう。そのまちがいのために、ひきこもりや自殺者がおおくなっているときうのが、現代社会のゆがみの理由だろうとおもう。かれらが、社会的にいきるために、いちいち、上杉和也をしなせるわけにはいかんとおもうのだ。
おもったことをかきつらねていると、おわりどころがわからない。
結論があるわけでもないし、ただ着想をことばにしたということだ。
- 作者:大平 健
- 発売日: 1995/09/20
- メディア: 新書
- 作者:あだち 充
- 発売日: 2012/10/12
- メディア: コミック